第7話 二つの授業 Ⅲ(1/2)

 白い壁には多くの異なる『景色』が浮かんでいた。それら『景色』の共通点は二つ。一つはこの山梨県の各地のものであること。もう一つは絵の具によって表現されたものであることだ。


 甲府観光の三日目。あいにくの曇り空の中、俺は咲季と美術館に来ていた。甲府盆地の中央近くの美術館は、玄武岩っぽい重厚な建物だ。玄関から右に行くと、中庭を取り囲むように回廊状の展示室があり、そこは絵画コンクールの入選作品の展示コーナーになっている。一日目に訪れた昇仙峡や二日目に通りがかったブドウ畑が鮮やかな絵の具で描かれていた。もちろん両方とも春や秋といった絶好のシーズンが選ばれている。


 美大出の自画像と違って目に優しい。もっとも、俺がどこまで理解できているかは怪しい。ごく普通にみえる小説の文章にもいくつもの技術的な工夫があるように、当たり前に見える風景画の奥にもきっといろいろな意図があるはずだ。


「しかし小学生が油絵を描くんだな、本格的だ」

「外と違って暖かいのはいいですね」


 感心する俺。咲季は素っ気ない。今日のこいつは白いパーカーとデニムのスカートというカジュアルながらもおしゃれな格好だ。外見的には観光客らしくなってきている気がする。しかし、こういう服を持ってきていたなら、なんで初日はジャージだったんだ?


「美術の成績とかどうだったんだ。ああ、俺には聞くなよ」

「…………たぶん似たようなものですよ。あんまりいい思い出ないんで」

「まあ、小説書こうって人間が美術が得意なわけないよな」


 将来スキルを脳にインストールできるようになって小説家志望に絵を描く能力を与えたら、どれくらいが漫画家になろうとするか、そんな実験ディストピアは生きてるうちに実現してほしくないな。そんなことを考えながら次の絵に進もうとすると、咲季が足を止めた。


 カラフルな花が描かれた一枚の前で、彼女は立ち止まっている。


「この絵? ええっと題名はシナノキンバイ…………なるほど高山植物なのか。ふむふむ、画像検索だと黄色一色の花だな。なのにこの絵は端のほうをオレンジに塗ってる。子供の発想って自由だよな。明らかに実物とは違うのにちゃんと説得力があるのは凄いな」

「…………自由でも発想でもないかもしれませんよ」

「どういうことだ? なにか美術的な意味とか技法とかか?」


 咲季が否定した。思わず口から洩れたような小さな声だった。


「…………この子にはただそう見えたのかも、ってことですよ。見えたまま描いたらこうなった。オレンジじゃなくて黄色とオレンジの境界にはちょっと青も入ってますね」


 咲季の説明が理解できなかった。境界にあるという青も俺には見えない。「昆虫じゃあるまいし紫外線は見えないだろう」と言いそうになって口を閉じた。咲季は睨むように絵を見たまま、その手がぎゅっとコートを握っている。


 近くにいるのに彼我の世界の境界を感じた。


 もしかして何か大事なことが言いたいのか。でも、もうちょっと伏線ヒントをくれ。俺は女性向け小説のヒーローの様に察しはよくない。女性が髪形を変えても気が付かないタイプだ。


 …………いや待てよ。


 脳裏を昨日のぶどうの園のことがよぎった。そう、あの時もこいつはワインの微妙な色合いをすごく敏感に感じ取っていた。それこそプロのソムリエも感心するほどにだ。


「『死角の色は』で色覚のトリックがあったよな。お前の描写がいつにもまして真に迫っていた」

「――っ」


 咲季はびくっと体を震わせたあと、俺を無視して中庭に面した窓に向かった。硝子に手をついて外の葉を落とした木を見る。


「…………私の実体験をもとにしてるんで。私の色彩感覚って普通の人とちょっと違うらしいんですね」

「…………ミステリじゃ四色覚っていってたか」

「そんな感じですね。まあ普通の人より色に敏感とかそういう程度らしいですけど」


 咲季は吐息でガラスを白く染めた。


「私の小説って色彩描写がすごいって言われますよね。幻想的とか、まるで見てきたよう、とか。そりゃそうですよ。見てるんですからね」


 若い女性作家はカンニングがばれて開き直った学生のような、でもほっとしたような、曖昧な表情をガラスに映している。

 咲季の視線の先にある中庭の樹木。それは俺の目には赤茶けた枯れ木にしか見えない。でも、咲季の目にはこれも玄妙な色合いに見えているのかもしれない。こいつの吐息で曇ったガラスが、微かに虹色に光っているように。


 ああそうなのか、と小説家として納得がいった。


 こいつの感覚クオリアは分からない。でも小説を書くものとして理解できることがある。もし自分に見えているものが人より色彩的に解像度が高いことを認識していて、それを小説表現として意図的に使えるなら。


 それはとても自然で、だからこそ説得力があり、読んでる人間にとっては新鮮で、かつ統一感のある特別な世界を描き出せるのではないか。いや、出来るのだ。さっきの絵のように。それが咲季の小説なんだから。

「私のデビュー作、ひどかったじゃないですか」


「……文章の流れも構成もめちゃくちゃだったな。冷静に読むと何書いてるのか意味不明なところもところどころあったし」


 懐石料理のコースの真ん中に和菓子を持ってくる、濃い肉料理が野菜料理の前に出される。そんなめちゃくちゃなお品書きこうせいだ。台無しになるはずなのに、料理一つ一つは今までにない美味さだから食えよめてしまう。センスだけでデビューしたのだとすぐに分かった。


 だからつまらん世話を焼いてしまった。簡単なことだからと口で三幕構成を説明してもさっぱり通じず、意地になってレストランまで連れて行ってコース料理で説明したっけか。あの頃は今とちがって技術の価値を信じていたからな。


 いや、ちゃんと表現するべき自分の世界さえあれば技術が有効だということは、今もそう思っているけど。


 ちなみに咲季には小説を口実に女の子に接近しようとするおっさんに見られたぞ。だからそのあとはこちらからは一度も連絡しなかったんだよな。その次に咲季の方から連絡が来た時は、弟子を自称していた……。


「先輩に教えられて二作目の『お品書き』から構成をちゃんと作って書き始めたら霧が晴れたみたいに書くことが見えてきて、…………人気も出ていく。でも二巻、三巻、四巻って書いているうちに同じことの繰り返しというか、スムーズすぎてこれでいいのかって不安になってくるじゃないですか。次はもう、飽きたって言われたら……」


 分からなくはない。何も考えずに出てくる文章は、本当に書きたいことを書いているか、手癖を繰り返しているか、最高と最悪の二択だ。経験を積むごとに後者になっていくのが小説の恐怖だ。自分の中には書くべき何も残っていないのに、下手に技術だけあるから様になっている空虚な文章。


 自分の幽霊が一番恐ろしい。


 俺がアリスを教え始めたちょうどそのころ、咲季の新刊から感じた構成のわずかな歪みは、今思えばこいつの迷いの予兆だったのだろう。


 俺は咲季には最低限必要なことしか教えなかった。必要なかったからだ。だけどそれですら余計なことをしたんじゃないかという懸念は、ずっと俺の中にあった。今回の“仕事”を引き受けた理由はそれだ。青木ヶ原樹海じゃない。


「ドラマ化でプレッシャーも掛かってたところに黒須さんと共著ってわけか。本格ミステリなんてがちがちに構成するもんな」

「…………ミステリ作家ですか」

「残念、ミステリ作家だったらあのコンテストは俺達が勝ってた」


 これは天才探偵の華麗な推理じゃなくて、無能な刑事の年の功だ。ミステリでたまに決まると盛り上がるだろ。空っぽの自分を技術で埋めることに関してはやれるだけやったからな。


 最高で最悪だな、そのめぐりあわせ。お前が今絶対に学ぶべきものじゃないことを、最高の教材で学びやがって。まだ小説を生み出せている作家がわざわざ小説を作ろうとしてどうする。それは俺みたいなもともと小説家じゃない人間のやり方だ。


「もったいないことしやがって」

「まあ、ずるですよね。見えたままを書いてれば売れるんだから。生まれ持った感覚だけで先輩の何倍も売れてる」


 思わずこぼれた妬みに咲季が自嘲的に答えた。「ほんといい商売です」と付け加える咲季を鼻で笑う。


「お前が売れてることなんて別にうらやましくもなんともない。自分の小説を書けて読んでもらえる特権を手放そうとしてるのがもったいないっていったんだ」

「特権って、作家はめちゃくちゃ弱い立場って文美はいつも言ってますけど……」

「それでもだ。どこの誰とも知らない何の利害関係もない人間の書いた、何の役にも立たない妄想を読んでもらえる。普通のことじゃないんだよ」


 子供は自分の言葉に大人が耳を傾けるなんて当然だと思っている。だが大人になればそれがあり得ないとみんな知っている。自分自身、赤の他人の思いや感覚なんて気にしていられないからだ。ましてや小説は膨大な時間を要求する。


 だから特権なんだ。仮にお前の小説がドラマ化されてなくても、たとえ売り上げが半分、いや三分の一でもな。


「自分の見た世界を書いているだけ? 良いじゃないか。っていうか、それだけなわけないだろ」


 日々文章を書くことばかり考えている小説家をなめてもらっては困る。俺が余計な技術を教える前に、こいつの描写は完成していた。きっとこいつは頑張ったんだ。自分だけに見える七色の世界を他人に伝えるためにどうすればいいかって。


 白いページに黒い記号を並べただけのものを、人の心に色鮮やかに届けるのがどれだけ大変か。そんなことは売れない作家でも知っている。


「その背景に生まれ持った資質があったとしても、俺は同じ小説を書くものとして尊敬するよ」

「っ! ……………………でも、それだけじゃいずれ……書けなくなるんじゃないですか。飽きられたら、何もなくなるじゃないですか」

「そうだな、センスだけじゃ限界はそのうち来るのかもな。だけどその時のことはその時に考えればいいんだよ」


 本人にとっては深刻であろう悩みを敢て笑い飛ばした。咲季は胡乱な目になった。分かってないな、これは別に気休めでも説教でもない。俺が言いたいのは良くも悪くもただの事実だ。それこそ凡人にも見える程度の。


 いずれ今以上の技術が必要になるかもしれない。身体能力だけで突き進んでいた運動選手が、年齢と共に技術の力で自分を支えるように。アイドルが演技力を磨いて女優に脱皮するように。子供でも味が分かるブドウがその渋みを大人に愛されるワインに醸造されるように。


 別に簡単でも何でもない。いや、とても難しい。だが最初から工業的に合成されたアルコールである俺と違って、天然物にはそういう熟成のチャンスはまだある。


「もし本当に、お前が心から、そういうのが必要だと思う時が来たらだ。その程度のことは俺が教えてやる」

「………………私の師匠じゃないんじゃなかったんですか」

「分かってないな。師匠なんて呼ばれなきゃいけないほど大したものじゃないんだよ。お前がその時必要とするものなんてな」


 自分を笑い飛ばした。伝授可能な知識や技術なんてその程度だ。


「っ!」


 後ろを向いたまま咲季が顔を伏せた、小さな肩が小刻みに震えた。ガラスの上の霧を掻く指の震えが止まるのを待った。


「………………………………取り消せませんからね」


 顔を伏せたままの咲季がいった。なんで急に重くなった? いま大したことじゃないという話をしただろ。いやまあ言った以上はいいけど。


「そうだ、一つだけ取り消しときたいことがある」

「なんですか、私より結局ピコピコですか」

「なんで突然アリスが出てくるんだ。実は、お前が売れてるのは少しはうらやましい。さっきはちょっとカッコつけすぎた」

「なんですかそれ。ちょっと、いえ完全に蛇足ですよ」


 咲季は呆れたように言った。


 うまいことを言うじゃないか。竜でも虎でもない俺は蛇がせいぜいだ。だからお前はちゃんと警戒しろ。おかしな知恵の実を食わせられないように。ちなみに楽園追放は物語の典型的なパターンのひとつだ。今はまだ教えないけど。


 俺たちはそのまま美術館から出た。咲季はだまって俺の後についてくる。少しは発散されたか。今俺のやったことは正しかったか? やりすぎてないか?


 まあ、しばらくは様子見だろうな。三日で立ち直るわけがない。綾野編集者には胃が痛いだろうけど俺はこいつの担当じゃなくて師匠……でもないけど。

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