第6話 二つの授業 Ⅱ(2/2)
甲府二日目、ビジネスホテルからのリモート授業でアリスが俺に示したのは、膨大な舞台設定だった。
「電子図書館は考えなかったのか?」
――物理的な図書館の方が人間の読者に想像しやすいと考えました。……先生は電子図書館を期待されていたのでしょうか――
「いや。アリスの考えは間違っていない」
AI《アリス》だから電子図書館というという俺の考えが安易だった。テーマやコンセプトに直結する意味がない限り、設定を複雑にしてはいけない。
「じゃあ次の資料は……。これまたすごい量だな。…………流石に蔵書リストまでは要らないんじゃないか」
――図書館で一番重要なのは蔵書だと認識しています。現時点では主人公がどのような本を勧めるのか分かりません。なるべく多い方がいいと思ったのです――
「なるほど。いや、それは後付けでいいんだ。ストーリー上必要になった本はあったことにすればいい」
本棚ごとに並ぶ本のタイトルを見て俺は今度こそ絶句した。
「『毒と薬』で、芽衣子と真理亜のエピソードを後からつけたしただろ。あれは最初にはなかった」
――……納得したくないのに納得できる斬新な方法です――
ええっと、今のは冗談かな? 画面が暗いせいで微妙な表情が分からない。そう言えば今日は東京の天気はどうなんだろう?
「次は塩田の資料? 何でまたそんな………………ああなるほど。図書館が新潟の海沿いの街にあるのか。これはいわゆる郷土資料だな」
――はい。図書館の特徴として設定した方がいいと思ったのです。……不要だったかもしれません――
「いやいや、これは必要だ」
資料を後ろに引っ込めようとしたアリスを止める。
「図書館の歴史と立地条件に関わる設定だろ。舞台の存在感、リアリティーに寄与する。いい着眼点だ」
どんな図書館にも沖岳幸基の小説は置いてあるが、戦国時代の塩田の資料がある図書館は限られる。ちなみに作者の生まれ故郷の図書館にも置いていない小説というのはいくらでもあって…………。
やめよう。そう言えば上杉謙信は敵である武田信玄に塩を送ったって有名な故事があったな。武田信玄と上杉謙信の区別もつかない咲季とは大違いだ。
「うん。なるほど意図は分かった。『舞台』に関してはほとんどいうことがないな。出来たといっていいんじゃないか」
――ありがとうございます――
アリスが表情を緩めた。目の前でテストの採点をされる生徒のような緊張の表情をしていたことにいまさら気が付いた。こっちは資料に圧倒されていたからな。
もちろん、俺の感覚で言えば必要だとしても細かすぎると思う。扱いきれずに逆効果になるだろう。咲季なら書けなくなりかねない。
だが、これはある意味アリスの強みであるかもしれない。それに、舞台についてこれでもかというくらい細かくイメージを作り、書く時はキャラクターに集中する。膨大な情報を管理できるアリスのスタイルかもしれないのだ。
もしその結果、アリス独自の作風がでてくるなら間違いなく新鮮なものになる。そういった独自センスは決して教えられない、学習できない本当の意味での本人の強みだ。それこそ咲季の色彩描写のように。
俺はあくまで人間で、アリスはAIだ。違う存在なんだから、違う感覚で小説に挑む。教えられない、教えてはいけない領域だ。
もちろん、小説として完全にバランスを崩した場合は、例えば文章の半分以上が図書館の説明になったり、俺がアドバイスすればいい。違う存在が、世界を共有しようとする試みが小説なんだから。
「アリスも自分の成長を感じないか?」
――…………先生に教わる前に、このような企画要素を考えられたかといえば、間違いなく不可能です――
「なら。もっと自信を持ってもいいと思うが」
――先生から与えられた学習の成果はもっと深いと思うのです。…………それに最終目標であるテーマの探索が進んでいるように感じられないのです――
「…………そうだな、確かにこの企画はテーマを掘り出すためだ」
目を伏せたアリスに、俺はやっと最大の目的を思い出した。テーマはアリスにとって鬼門であり、人間の作家にとっても難題だ。油断していないという意味で、良いことだろう。
「そうだな、そういう意味で次の『コンセプト』が重要だな。主人公も舞台も、それだけでは要素だ。この二つが絡み合って初めて小説、ストーリーになる。そしてそれを客観的に概観するのがコンセプトだ」
――はい。そしてそれをひっくり返せば、テーマが定まる、のですよね――
「ああ、そういう風に考えていい。んっ、そろそろ時間か。今日は九重さんとチャンネルの打ち合わせだったよな。じゃあ、次の宿題はコンセプトということでいいな。しっかり考えてみてくれ」
――はい。ありがとうございます。コンセプトを先生に評価していただけるように、テーマに届くように頑張ります――
通信が切れた後の画面を見ながらアリスの企画について考える。
主人公は重要だし、舞台はしっかりしていた方がいい。だがそれぞれが潜在的にどれだけ魅力的だったり、精密だったりしても、それは要素であって小説自身ではない、静的な情報だ。主人公詩乃が舞台である図書館で何をするか、何をしようとするか、コンセプトは複雑で動的な情報になる。
歴史研究論文と歴史小説くらい違いがある。上杉謙信が単騎武田信玄の本陣に切り込んでいくかもしれないし、明智光秀が突然織田信長に反逆するかもしれない。後者は史実だけど。
っていうか戦国時代に義将上杉謙信なんているわけないんだよなあ。豊かで海がある越後を領有する謙信が、信濃の盆地なんて欲しがらなかっただけだ。武田家との緩衝地帯として、地元豪族に自主的に管理してほしいに決まっている。
同じ謙信が豊かな関東平原で何をしたかを考えればなおさら。
いかん、甲斐の国にいるせいで思考が歴史小説になっている。
とにかくだ、アリスは俺がこれまで教えたこともきちんと理解している。自主的に考えようと頑張っている。授業時間を小刻みにして、アリスの考える時間を多くしたのは、功を奏しているといえるだろう。咲季のやらかしのせいだが、まさに怪我の功名といったところだ。
しかし、功名とはまた歴史小説っぽい言葉だ。俺はホテルの小さな窓から空を見た。今日の甲府は少し雲が出ている。
◇ ◇ ◇
「お疲れ様アリス。授業は終わった?」
「…………はい。待っていただいて申し訳ありません、九重さん」
バーチャルルームに浮かぶ閉じた枠をじっと見ていたアリスは、入ってきた九重詠美に振り返った。
「たった数分のことだから問題ないわよ。だけど…………もしかして授業が上手く行っていないとか?」
「いえ、とても順調です。先生にも褒めていただきました」
アリスのリソースの消費を確認して、詠美が聞く。アリスは答えた。「ただ……」と付け加える。
「ここで直接お話しできないので情報量が足りないです。細かい表情のニュアンスなどが……」
「なるほど、リモートは勝手が違うわよね」
バーチャルルームではアリスは相手の表情を三次元的に認識できる。人間同士が直接会っているのと、画面越しのリモートなのと同じような違いが存在するのだ。最近はリモートの打ち合わせも増えているので、詠美にも理解できる。
「先生にはこれまで私の授業のために多くのイレギュラーなタスクをお願いしてきました。ですから、私が譲るのは当然です」
アリスの物分かりのいい言葉に、詠美は微かな違和感を感じた。譲る、とは誰に対していっているのか、とか。
「きっとすぐに帰ってくるわ。早瀬さんは見つかったみたいだし」
「そうなのですね。早瀬さんが無事でよかったです。そうですよね。先生は私の先生なのですから」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、アリスは顔を上げた。
「問題ありません。チャンネルの打ち合わせを」
詠美が打ち合わせの資料を開く。アリスは周囲に開かれていた授業の資料を消した。詠美は消える瞬間の一文が目に残った。「敵に塩を送る」という古めかしい諺だ。
海野さんは、授業に歴史をよく使っていてみたいだし、アリスの企画に歴史要素でも出てくるのだろう。詠美はそう思うことにした。
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