第6話 二つの授業 Ⅱ(1/2)

「真昼間からお酒を飲むことを仕事と言い張れる。いい商売ですよね」


 試飲用のワイングラスから唇を離した咲季が言った。小ぶりのグラスが童顔に良く似合う。ギリギリ犯罪じゃないくらいに。


「その台詞そろそろ読者が飽きるからやめてくれ。せめてもう一工夫頼む」

「お断りです。仕事じゃないんですよね」

「完全に矛盾しているが」




 二日目。俺が咲季を連れてきたのは、勝沼。甲府盆地の東の端で、山麓に掛けてブドウの栽培が盛んな地域だ。今いるのは周囲のワイナリーが共同して運営しているショップで、古風な洋風建築だ。木製の棚と随所に配置された木樽がしゃれている。観光客向けの、殺人事件が起こりそうにないタイプの洋館だ。

 木の壁にかかった周囲の案内図を見る。甲州ワインが有名なことは知っていたが、日本にこんなに多くのワイナリーが存在していることに改めて驚く。残念ながら来る途中に見たぶどう畑には枯れた蔓しかなかったが。


「で、このワインを小説に出せというわけですか……」


 咲季は赤ワインから口を離して、じっと俺を見て言った。薄いリップに僅かに残った朱がちょっとなまめかしい。ちなみに今日のこいつはカジュアルな白のパンツルックだ。観光客というよりは、地元の人がふらっと立ち寄ったという感じだが。


「んっ? 次巻はワインが出てくるのか」

「私のプロット見たんじゃないんですか。出てきませんよ………………多分」


 慣れない詳細な企画なんか作っても頭に入っていないじゃないか。ちなみに企画の最悪形とは備忘録になってしまっていることだ。忘れないように注意する必要があることなんて、書きたくないといっているようなものだ。本格ミステリみたいなジャンルは別だけど。


「先輩は飲まないんですか?」

「ここまでどうやって来たか覚えてるよな? どれが美味かったかだけ教えてくれ。お土産に買って帰るから」

「お土産ってピコピコ……は飲めないか。それじゃ観光じゃないですか」

 恨めし気な咲季に「観光だって言っただろ」と返す。


 嘘ではないぞ。昨日は自然の光景で、今日は味覚。確かにお品書きで描かれるモチーフをめぐっているが、ターゲットは小説じゃなくて、その小説を書く咲季自身だ。


 強いて言えば三年後くらいに今日の経験が文章として熟成されればいい。ボジョレーヌーボーじゃあるまいし、出来立ての酒なんて大概飲めたものじゃないからな。お前がいま飲んだのだってボトルに八年熟成って書いてあるだろ。


「右側が赤で左側が白か。スパークリングはあっちの壁だな。じゃあ、奥にあるちっちゃいビンは何だ?」


 俺は咲季を促して奥の棚に向かった。そこには細いビンが並んでいる。


「色は白ワインだよな。左と何が違うんだ? あっ、カワイイは無しだぞ」

「言いませんよ。全然違うじゃないですか。こっちはちみつみたいな黄色の光沢があって、この瓶のはちょっと緑色が入ってる」

「はちみつ? 緑?」


 咲季の言葉に改めてボトルを見るが、俺にはやはり白ワインにしか見えない。


「お目が高いですね。それはマスカットのストローワインです」


 答えは後ろから来た。紫色の制服を着て、胸元に金バッジをつけている女性店員だ。ぶどうの房のバッジはソムリエ資格の証明だったか。


「ストローワイン?」

「はい。ストローワインはデザートワインの一種ですね。こういう干しブドウを原料に作るんです」


 店員はワインの下の引き出しを開き、ガラス瓶を取り出した。蓋を開いて小皿に中身を取り出した後「どうぞ」と勧めてくれる。普段見るのとは違う、大粒で緑色のレーズンだ。


 口に入れると、普通の干しブドウよりも水分量が少し多めなのか、ねっとりと濃厚でマスカットの清涼感のある甘さが口の中に広がった。


 なるほど、干して水分を飛ばすことで濃縮された果汁で作るワインか。発酵後も十分な糖分が残っているから甘いと。


「こっちはリースリング種ですね。ドイツのアイスワインで有名です。同じ白ブドウでも色が少し違います」


 確かに原料であるブドウは咲季の言った方が緑色だ。俺は改めて二本の瓶を見比べる。


「うーん、そう言われてみると微かに色が違うような。いや分からん。咲季は凄いな」

「そうですね。普通はまず見分けがつかないんですが」

「……そう見えただけですから」


 俺と店員がそろって褒めたのに、咲季はなぜか顔をそむけた。




「それで、酔わせた女の子をこれからどうするんですか。お持ち帰りします?」

「ここはお前の宿だ。だいたい酔っぱらうほど飲んでないだろ」

「何のためのお酒ですか」

「女の子を口説くためでも、小説のネタにするためでもないのは確かだな。そうだ、今夜は酒はやめておけよ。ああこれなら食べていいぞ」


 俺はブドウを描いた紙袋から購入したマスカットの干しブドウを咲季に押し付けた。せっかく説明してもらったのでストローワインとやらを買おうかと思ったが、ハーフサイズで普通のワインの何倍もの値段がした。


「じゃあ、俺はもう宿にもどる。また明日な」

「まあ、良いですけど。一日一カ所って効率悪い……」


 観光スポットを時間を惜しんで回るなんて、はっきり言えば暇つぶしの効率が良いに過ぎない。問題は百景を見ることじゃない、その中から一つの画題を得ることだ。まあ本人が目を開けてないことには、それすら不可能なんだが。


 とはいえ昨日よりは少しは顔色がよくなっているか? 単にアルコールのせいかもしれないけど。


 ブドウの収穫はとっくに終わっている。今はワインになるために発酵しているところだろう。人間の内面なんてアルコール度数の変化で計測できない。見守るしかないんだ。小説は天然ものなんだよ。特にお前のはな。


 しかし、今日の咲季のワインの色への感覚の鋭さ……どこかで見たような。




 ホテルにもどった俺は、殺風景な部屋の中でノートPCを開いた。時間どおりにオンになったウインドウに、アリスと一緒に膨大な量のデータが並んでいく。


「…………ずいぶんと沢山の資料を集めたな」

――私としては厳選したつもりです――


 ノートパソコンに収まりきれないリストに圧倒された俺に、アリスは何の気負いもなく答えた。


 ちなみにこれは完全に蛇足なのだが、ノートPCの画面は16:9ではなく16:10がマストだ。わずか一割の縦幅の増加が生産性に果たす役割は大きい。ノートパソコンは動画鑑賞のためにあるんじゃないと声を大にして言いたい。まあ、最近はビジネス用は16:10が主流になりつつあるけど。


 ちなみに俺のノートは16:9だ。


 アリスの授業料でノートPCの新調を考えた俺。画面の向こうでアリスは小さく首を傾けた。俺は我に返った。今は報酬に見合うだけの授業をする事を考えるべきだろう。


 改めてリストに目を通す。画面が16:10でも到底収まりきらないデータの数々は、アリスの小説企画の『舞台』である図書館の設定だ。


 厳選したというアリスの言葉通り、参考資料ではなく、設定である。


 トイレや倉庫の位置まで記された館内図は、本当に建設するつもりなのではという細かさで、良く見ると庭の樹木や花壇の花の種類まで決まっている。今日行ったぶどうの園の案内図でもこんなに詳しくなかった。

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