第3話 編集者
すっかり通いなれた地下鉄の駅、そのそばの雑居ビルの一階が喫茶店だったことを俺は初めて知った。赤銅色のドアをくぐった店内は、シックながら明るめの装いで、軽快なジャズが響いていた。柔らかで上品な空間を見渡す。
奥の席で頭を下げた男は店の雰囲気によく合っていた。
…………
「集談館の綾野です。この度はご足労頂きありがとうございます」
「いえ、メタグラフでの仕事の帰りでしたので」
席に着いた俺は挨拶と名刺交換を済ませる。
綾野という編集者は、白いシャツにストライプのネクタイを締め、ダークブルーのスーツを着た三十代初めの細身の男だった。フチなしの眼鏡をかけた細面はイケメンといっていい。ちょうど女性向けの小説に出てきそう。綾野という
ただし、今のように憔悴してなければ、だが。
朝は櫛の入っていたであろう黒髪はところどころほつれ、携帯を確認している顔には隠し切れない憂慮が浮かんでいる。何より編集者の呼び出しに小説家が応じたことに本当に恐縮してるっぽいのは相当追い詰められている証拠ではないか。
「海野さんの『毒と薬』は拝読させていただきました。最後の逆転は素晴らしかった」
「ありがとうございます。でも、あれは実は共著者のアリスのアイデアなんですよ」
コーヒーが来るまでの間、綾野氏はTFxのミステリコンペに言及した。咲季の担当なのだから知っていて当然だな。あれが完全に自分の作品だったら機を逃さずに売り込んだだろう。集談館から出せるなら願ったりだ。だが、向こうにその気はないし、そもそもそんな余裕はないのが丸わかり。
「本題に入りませんか」
俺は言った。相手の顔が社交から仕事モードに変わった。
「……というわけです。突然連絡がつかなくなってしまってから二週間ですね。メールはもちろん電話にも出てもらえない状態でして。本当なら第一稿の締め切り時期です。…………海野さんにもお分かりだとは思いますが、ドラマの放送中に次巻を出すのはマストでして」
「そうでしょうね」
俺は合わせた。映像化なんて無縁なので、想像は出来るけど実感は出来ないが本音だが、それでも綾野氏がとんでもない苦境にあることは想像に難くない。編集者という仕事がどうして存在しているのかというと、出版というビジネスは作家以外にも多くの人間がかかわるからだ。
表紙を描くイラストレーター、タイトルなどのデザイナー、校正、そして印刷所、取次と呼ばれる特殊な問屋、そして書店。さらに最近は電子書籍の販売関係。立場も性質も全く異なる仕事のハブが編集者だ。ちなみに今のはただ本を出すだけの場合。『お品書き』のようにドラマ化となれば、もはや理解不能なほど込み入ったプロジェクトになるだろう。
目の前にいる綾野氏がやっているのは、作家が絶対にやりたくない仕事、そして絶対にやれない類の仕事だ。俺なら発狂する自信がある。まあ編集者の方は作家はもともと発狂している、と思っているかもしれないが。
作家が一番嫌いなのが編集者で、編集者が一番嫌いなのが作家なのではないかとすら…………。
いかんいかん、小説家モノの小説じゃあるまいし。
大事なのは作家が書けなくなるのにそう言った事情は関係ないということだ。出せば売れるとわかっている人気作の続編が出ない例がどれほどあるか。
「事情は分かりました。ですがどうして私なのでしょうか。例えば――」
「『死角の色は?』共著者の黒須さんでしょうか。最初に連絡しました。…………そうしたらご自分よりも海野さんがといわれまして。そこで九重さんの伝手を頼って、というわけです」
あの
「しかし、だからといって私も――」
「これが次巻の企画として提出されたものです」
紙の束がテーブルに出された。表紙に『お品書き』企画と書かれた紙の束がテーブルに出された。封筒からコピー用紙にして二十枚くらいありそうだ。作家によってはこれくらいは当たり前だ。完成した小説の半分近いボリュームを作る作家もいるらしい。だが……。
「……厚いですね」
「…………はい。これまではペライチだったんです。ひどいときは舞台と料理の二段落だけでした」
綾野氏は何かを確認するように、俺の顔を見てから言った。それはともかく、どうやってそれで最低でも数百万必要なプロジェクトにゴーサインが出るんだ。これだからセンスのある人間は手が付けられないんだよ。
だが現在テーブルに乗っている問題は、そういう作家がこんな企画書を出したってことだ。以前、ちょうどアリスの最初の授業のために書店に行った時のことだったか、咲季の新刊に感じた違和感がよみがえる。
そう言えば黒須さんとの飲み会の時も次巻について濁していたな。あの時点ですでに詰まっていたのか。とすると……もう一月近くか……。確かあの時も感覚派の咲季にとって論理的に構成するミステリに関わることが危険ではないかって思った記憶がある…………。
いや待て、今のはそれはあくまで俺の感覚だ。
「長く同じシリーズを描いていると、いろいろ試してみたくなるものでは?」
「……もちろんそう言った挑戦は必要だと思います。それで『真宵亭のお品書き』のファンに良いものを届けていただけるなら、スケジュールは可能な限り調整します」
憔悴の雰囲気が消え、真摯な表情になった綾野氏。作家なら性別関係なく惚れそうな言葉だ。その顔を見て、俺はあることに気が付いた。
あなるほど、この担当者があのキャラのモデルか。『お品書き』の中で一番のイケメンキャラ。親切で人当たりが良くて仕事が出来るというスーパーマンで、おおよそ女性が放っておかなそうな、でももちろん未婚の男キャラだ。
現実のモデルは左手に指輪をしているのはともかく、そう言った有能で熱意ある編集者がついているんだ。俺に何が出来るとも思えない。
そもそも咲季は大人だし、プロの作家だ。それも俺よりずっと売れている。そして何よりも才能ある優れた作家だ。この後で連絡くらいはしてみるつもりだが、それくらいじゃないか。
というかさんざん弟子を自称しながらこういう時に相談してくるわけでもないっていうのが……。
俺が「やはり私には」と話を終えようとした時だった。
「実は早瀬さんがどこにいるか、ある程度の見当はついているのです」
「そうなんですか?」
「はい。これが早瀬さんが三日前にSNSに投稿したものです」
編集者は携帯をテーブルに置いた。そこにはSNSの投稿らしい写真が表示されていた。旅館らしい木造建築の前で自撮りしている咲季だ。…………逆光で顔はよく見えないが、その姿は観光客に見える。
「三十分後には消されていましたが、幸い写真を保存しておいたのでどこかは分析できました」
困惑する俺に、細眼鏡をくいっと上げて編集者は言った。編集者が担当作家のSNSをチェックしているというのは本当だったのか。流石売れっ子作家は違うな。まあ、ちょっと引くけど。作中のこの人はさわやかイケメンなのに……。
「このアカウントは早瀬さんが目についた資料を投稿しておくようです。それはともかく、これは山梨県の老舗旅館です」
「……………………あの、お品書きの次巻の舞台が確か甲府だったような気がしますが」
完全に拍子抜けした。締め切りから逃げた作家が作品の舞台に行くわけがない。つまり遅れているのは事実で、出版社にとっては深刻な問題だとしても、取材だというのなら俺が口をはさむ必要はない。
「……本当に取材ならいいんです」
だが綾野氏は携帯を地図アプリに切り替えた。
二本の指で拡大された航空写真。そこは山梨の中心部である甲府盆地からは南に離れていた。旅館の位置を示す水滴マークの南には広い森が広がっている。そこに表示された地名に顔が引きつった。
『青木ヶ原樹海』
それは昭和の大作家の小説により、ある行為の名所として知られるようになった地名だった。
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