第8話 練習
いつも通り非の打ちどころのない綺麗な姿勢で椅子に座るアリス。その顔には緊張の色がある。彼女の視線はホワイトボードに並ぶテキストに向いている。ホワイトボードに表示されているのは、彼女が『お品書き』の中で
つまり、俺が前回最後に出した宿題である。
選択した文章だけでなく、その文章の前後が薄い灰色で表示されている。各文章の最後にはページと行数まで記されている。外部記憶を持たない俺に対する配慮はありがたい。ただ、それが一抹の不安を誘う。
目の前の美しい生徒の頭の中には、この五つのテキストが表として格納されているのではないか。そして、そういう形式で小説を扱うことのどこが間違っていてどこが正しいのかを、教師である俺は理解できるのだろうか。
とはいえ、まずは採点しなければ始まらない。俺は
1:朝起きた朝子が旅館の窓から見た光景:〇
2:朝子の食べている日替わり定食の描写:×
3:夕食の一幕:〇
4:朝子の前で分かれる駅と港への道の光景:〇
5:朝子と栄養士松岩が偶然相席した居酒屋のテーブル:△
「……出来ているな。点数を付けるなら百点満点の七十点。いや、七十五点かな」
アリスの選び出した文章はほぼ問題ないものだった。
「二番目が間違いである理由は何でしょうか?」
「ああ、朝子の食べているランチの描写が彼女の心情を現していると思ったんだろう。でも、これは朝子の内面ではなく彼女の置かれた状況を『説明』しているんだ」
朝子がふらりと入った街の食堂の日替わり定食。煮つけや酢の物と言った地味な料理が、咲季ならではの繊細な色彩描写で描かれている。だが、これはこの地域の特産物の情報を出すためだ。彼女が最終的に解決する
「ヒロインの感情ではなく、ストーリー上必要な情報ということでしょうか」
「ああ。例えばこの魚は新鮮さが売りだ。味噌汁の具である山菜や、筍の酢の物はこの土地の特産なんだ。舞台の街は大きな港があり、山が背後まで迫っている」
ホワイトボードに、舞台である三陸の港町の地図を表示する。
「なるほど。むしろ私の本来の基準で判断した情報そのままということですね。……どちらのアルゴリズムを使うべきか、どうやって判別すればいのでしょうか」
「情報の矢印が向いている方向とでもいうかな。それがキャラクターの内面に向かっているか、外側に向かっているか」
同じく雨が降っていても、信長が反逆した弟信行を殺す前なら信長の心情だし、長篠の合戦の前ならこれからの戦闘がどうなるかの伏線になる。もちろん、両者が重なることがないわけではないが、ここぞという情景描写にはやらない。
「なるほど。料理について書かれた文章に現れる情報は外部環境に向いているわけですね」
「さらに言えば、この朝食の情報はただ並列に並んでいる。朝子の心を描いているなら、朝子に向かって情報が収束しているはずだ」
俺の説明に大きくうなずいているアリス。
綺麗な文章に無粋な分析。美女を司法解剖するような行為だ。小説を書きながらそんなことは嫌と言うほど考えてきた。だから、いやになるほど簡単にこういう回答が出てくる。大事なことは、この回答とは無関係にあるというのに。
今は小説を書いているのではなく、教える立場だ。
「理解しました。ですが、その論理では四番目が説明できません。二つの独立した情報が全く正反対を向いているように見えます。中心である朝子の心を指していません。どうして正解なのでしょうか」
「ああ、それは朝子の葛藤だ。正反対のこの二つの情景の間に朝子の心がある。街から去るために駅に向かうか、自分が気付いた問題を解決するために港に向かうか。もしかして解ってなかったか?」
「はい。四つ目は不正解ですね。タイプとしては二番目と同じと判断していたので、納得です。最後の文章が△というのは、どういうことでしょうか。今の例には当てはまらないと思います」
「これは重要な情景描写だ。その点では間違っていない。だけど、これは誰の心だ?」
「それは当然、主人公の朝子です。そういう問題設定ですから」
「これは朝子の対峙している栄養士松岩の心理描写だ。直接数字は出てこないが、やたらと材料や調理法に繋がる描写があるだろ」
同じ料理を挟んで対峙した朝子と栄養士の松岩。仕事を辞めて当てのない旅の朝子と、溜まった休暇を無理やり消化するために来た松岩。対照的な二人の因縁のはじまりだ。
「私にはまったく区別がつきません。同じパターンの文章表現としか判断できません」
「まあ、ここは実は視点ぶれだからな、技術的に言えばルール違反だ」
そのルール違反した文章の心に刺さること。読者には理屈ばかりこねる栄養士の内心を示す見事な描写だ。小説で重要なのはそこなんだよな。これから松岩が出てくるたび、読者はこのシーンを思い出す。
「選択の理由まで分析しても、情景描写を“選択”するという基準なら、まあ合格だな」
「合格ですか? スコアがとても足りないと思うのですが」
「いや、こういうのはそもそもあいまいでな」
作者が情景のつもりで書いていても、伝わらない場合もある。作者が情景のつもりで書いていないものが、読者には情景として伝わることもある。そのどちらにも意識的な場合と無意識的な場合がある。
咲季に聞いたら「えっ、私そんなこと考えて書いてませんよ」というものが入っていてもおかしくない。あいつの場合特に感覚派だ。
小説の読み方に本当の意味での正解などない。国語テストならそう言った誤解や曖昧さが生じない部分を選べばいいが、今回はそうはいかない。だから、ヒロインの情景を大事な五つに絞るように指示したのだ。
描写と説明の区別がつかなかった状態から、たった三日でと考えれば驚異的ともいえる。先日と違って俺の説明も理解できている。だが、純粋に技術的に見ても、少し問題を感じるのも確かだ。
「仮に今回を参考にしてアルゴリズムか。それを改善して『お品書き』二巻に当てれば精度が上がるんだろうな」
「はい。そう予想できます」
「なるほど。それは避けた方がいいな」
「どういうことでしょうか?」
「問題は二つある。まず、一人の作者の描写に特化した判断になってしまうこと。今回、君が一番重視しているのは色彩に関する表現ではないか」
「正解です」
「それはこの作者、早瀬咲季の特徴だ」
視覚的な描写を一つとっても、咲季のやつは明暗をほとんど使わない。まるでパステルカラーのような色彩を描写する。普通のセンスではないのだ。加えて、構成的に言えば、アリスが文章の重要性を判断するヒントにしているところだが、このお品書きは教科書通りだ。
咲季にとって素晴らしい描写が出来ることは前提で、問題はそれを配置する場所を決めることだけだった。何しろ、デビュー作は最初にステーキを出した後、サラダを出し、真ん中にデザート、最後にスープと並べたコース料理のようだった。
たまりかねた俺がそう教えた、いやちょっとした口出しをしたのはそのせいだ。そのすべてが上手いんだからもったいないと思ってしまったのだ。
「先生の懸念を理解しました。つまり、過剰学習とハイパーパラメーターの問題ですね」
「なんだって?」
「過剰学習というのは……」
「ああ、思い出した。まさにそれだ」
ハイパーパラメーターはたった一つの基準が不相応に重要であることだ。例えば、色の描写があれば、高スコアにするということ。過剰学習は、一つの作品に特化した判断基準の生成だ。
例えば株取引の人工知能を作るとして、過去のデータで儲けられる人工知能ほど、未来のデータでは儲けられなくなる。あるいは百倍になったベンチャー企業の特徴だけを学習してしまうということ。
同じような企業を選んでも大儲けどころか潰れるだろう。同じテーマとコンセプトで小説を書くような無残なことになるだろう。
「つまり、過剰学習とハイパーパラメーターの問題を解決する方法として。作風もジャンルも違う作品を選ぶべきだということだ」
「計算が増える上に、正答率が下がりますが」
「最終的には君は君の小説を書くんだ。早瀬咲季の劣化コピーじゃない」
「わかりました。となると問題はリソースの確保です。次の読書会の台本は出来ていますが、その次は割り込みだったので。困りました」
「ああ、九重さんが言ってたのか。待てよ、それって同時にできないか? 次の次は咲季の本じゃないだろう」
「なるほど。……はい、読者層も作者の属性も全く違います」
「それでいこう。課題の形式は同じだ。主人公の重要な情景を五つ選び出す」
「わかりました」
「じゃあ今日はここまでにしよう。そうだ、ここまでで何か解らなかったことがあるか?」
アリスは少しためらった後で「実は前回の授業からずっと気になっていたことがあります」と言った。
「そうだったのか。何でも聞いてくれ」
「はい。あの、先生はどうやって私の欠陥に気が付いたのでしょうか」
「欠陥という言い方はいただけないが……。アリスのチャンネルを見直したんだ。この「お品書き」の回のな。実は作者の早瀬咲季とは知り合いで、付き合ってもらった」
先日のことを説明した。咲季には本当に感謝だな。後でちゃんと礼をしないといけない。
俺の言葉にアリスは大きく目を見開いた。
「そこまでしていただいたのですか!?」
「ん? まあ、家庭教師なら予習はするだろ。契約には成功報酬もあるからな」
俺は「課題の答えを楽しみにしているよ」といってバーチャルルームを出た。
「九重さん。次のアリスの紹介する本を資料として貸してもらえませんか」
オフィスに出た俺は九重さんにそう声をかけた。アリスのリソースの関係から、教材にするという話をする。
「そうですね。海野先生はアリスの技術顧問ということになっていますから、はい、そういうことなら問題ないでしょう。ただ、今回は特例で発売前なんです。扱いには注意してください。先生に言うまでもないと思いますが」
手渡されたハードカバー。その表紙を見た瞬間、体がこわばった。本のタイトルは『
「沖岳幸基の新刊ですか、確かに大きな話ですね」
「そうなんです。これまで届かなかった層にリーチできるかもしれないですから」
俺は「確かに」とぎこちない笑みを返した。そして、手早く持ってきたカバンに本を入れた。
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