第7話 一番大事な文章(2/2)

 昨夜、恋人から告げられた別れの言葉は、昼間になってもまだ朝子の頭を占有していた。だからだろう、彼女は普段なら決してしないミスをする。運んでいた盆からグラスが滑り落ちそうになっているのに気が付くのが遅れたのだ。ガシャンという音と共に、床の上でグラスが砕けた。

 グラスの欠片は扇型に飛び散り、その鋭い断面は光を浴びて七色に輝いた。

 朝子は反射的に伸ばしかけた手を止めて、割れたガラスをじっと見た。

 彼女が退職願を書いたのは、その夕方のことだった。


 ホワイトボードに表示された『お品書き』序盤最後の文章。それをペンで指しながら、俺は説明する。


「問題は二段落目、


“グラスの欠片は扇型に飛び散り、その鋭い断面は光を浴びて七色に輝いた。”


という描写だ。君にはこれの意味が解るか?」

「まず、彼女は失恋による心理的ストレスを抱えています。そして、ガラスの容器を落とすというミスを犯してしまいます。問題の文章にはその結果としての、床に落ちたガラス容器の状態が書かれています」


 アリスは答えた。文章通り文字通りの正確な意味だ。だから俺は首を振る。


「ここで砕けているのはグラスじゃない、朝子自身だ。もっと正確にいえば、これまでの自分が砕け散り、だけどその砕けた自分にはこれまでにない新しい輝き、可能性が内在していることに朝子が気が付いた。そういう意味が込められている」


 もちろん咲季さくしゃに確認したわけではない。だがここは第一幕の最後、これからストーリーが本格的に始まる直前の一等地だ。そんなところに無駄な文章を置く作家はいない。


 ちなみに「読書会」でのアリスの感想は、この後の朝子が実際に旅に出たところから始まっていた。それは朝子が新しい街に向かったという“事実”を現しているだけ。ヒロインの外側であり、内側の変化ではない。


「先ほどと同じ構造……。しかし確証は、だってそう書いていません」


 アリスの視線は俺の信長の夕日と、咲季のグラスを行き来した。あんまり比べないでくれ、作家としてのセンスの違いが分かってしまうだろう。もっとも「うわ、私の先生文章下手すぎ」と思う余裕は生徒にはなさそうだが。


「じゃあ分析しよう。君の理解では人間が砕けたガラスに感じる感情は?」

「恐怖です。触ったらケガをするかもしれませんから。……この場合は、自分の失敗の結果ですから、反省や後悔といった感情もあり得ます」

「なるほど。じゃあなぜ「七色に輝いている」んだ?」

「それは…………割れたガラスの示す物理的特性から……ありうることです」

「なぜ、そこまで詳細に書いている。その理由を論理的に説明できるか?」

「…………解りません。確かに情報量が過剰です。ですが」

「次はストーリーの流れから考えてみよう。彼女はこの後旅館を出て新しい世界に旅立つ。つまり、ここは物語が本格的に動き出す直前、つまり彼女が新天地へと向かう理由が描かれるべき地点だ」

「小説の構成的には、また意味の流れからは、確かにそうです」

「よし。じゃあそれを前提にだ。この描写の七色の輝きは彼女の新しい可能性を、とがった先端は彼女がこれから新しい未来を切り開く力を、そして切っ先が朝子から見て前を向いて広がっているのは、これから彼女が前を向いて歩きだすことを示している、と考えたらどうなる?」

「前後の構成を考えた時、あり得ない可能性ではないかもしれません。…………ですが、私にはそう理解できません」


 構成や情報量という客観的基準で情景の意味を紐解いて見せる。完全に困惑してしまった生徒。


 今自分が書いている文章が小説のテーマやコンセプトそしてストーリー上でどの位置にあるのか。今自分はどれだけの量の情報を一度に理解してくれと読者に求めているのか。これは小説を書くときにはいやでも意識せざるを得ない。


 遠慮なく言わせてもらえばこれは高度な技術だ。


 だが、大事なのはこれから伝えることだ。俺は努めてゆっくりと語り掛ける。


「この重要な場面で、作者は読者自身の心で朝子の心を感じてほしいんだ。読者の心の中に朝子の感情を見つけてほしい。だから朝子の心を書かずに、朝子が見た割れたグラスを描写した。さっきの信長の夕日と同じように」

「私には極めて困難な解釈です。…………ですが…………先生の解釈ならここにあった情報の断絶は解消します。過大に見えるグラスの情報量も説明できます」


 そこまで口にしてから、アリスはうつむいた。


「…………つまり、私は小説の中で最も重要な部分を理解できない―――――――」

「そうだ。とはいえ、こういう文章は多すぎるとストーリーが意味不明になるからな。だからその前後に、失恋したとか退職願のように情報をちゃんとおいて伝わりやすく工夫する」


 ちなみに朝子はしっかりした常識を持った社会人なので、退職したのは引継ぎが終わった一ヶ月後だ。また退職願いであり辞表ではない。


 常識が無かった作者さきの文章は校正さんの貢献により正されたのだ。


「で、君は構成やこういった情報はちゃんと読み取れているから、今度はそれをヒントに…………。どうしたアリス!?」

「――――」


 気が付けばアリスの表情が動きを止めていた。目の光が消え、口はまっすぐ閉じ、瞬きも止まっている。明らかに異常だ。俺は狼狽える。


 いったいどうすれば。そうだ、九重女史に連絡を、そう思ってコンソールを呼び出そうとした時、アリスの表情が動いた。彼女は瞼をゆっくりと上下させた。その瞳の焦点が俺に合う。コンピュータの再起動、人間の目覚めのどちらとも取れるような仕草だった。


「申し訳ありません。強い認知的負荷がかかってしまったようです。一時的な現象ですので大丈夫です」

「それならいいんだが……」

「はい。問題とすべきは、私の小説を理解する能力について深刻な欠陥があることです」


 アリスはそこで一度言葉を切った。


「先生のご指摘の通りなら、私は小説の文章の中で一番大事な情報を理解できていない状態で、小説の紹介をしていたことになります」

「いや、それは大げさすぎる」


 声音はアリスだが、人工音声オペレーターのような感情を抑えた声。とんでもないショックを受けている。考えてみれば今のは彼女に「ViC失格」と言ったようなものかもしれない。


「落ち着いて聞いてくれ。情景描写は確かに重要だ。だが、小説全体の情報の中の割合で言えばごくわずかだ。使う時も慎重に周囲に情報を置き、伝わるように工夫する。つまり、君が理解している文章の表の意味や、構造との関係を使って情景に切り込むことが可能だ」

「…………私には意味が全く分からないこれらの文章にも、解析のヒントはあるということですか?」

「そうだ。俺はそう考えている」


 アリスの瞳に光が戻ってきた。


「ですが、この問題を私が解決する手段が存在しません」

「それこそ教師の役目だ。まずやることは、小説の中で情景描写を見つけ出すことだ。繰り返すが、アリスは文章の表の意味は分かっている。ストーリーの流れもちゃんと捉えている。直接描かれていれば登場人物の感情も理解できる。それをヒントに情景描写を割り出すことはできるんじゃないか。で、そうやって君が選んだ文章を俺が適切かどうか採点する。これは可能な“課題”じゃないか」


 課題とか採点とか、小説には使いたくない言葉であえて説明する。うつ向きがちだったアリスの顔が僅かに前を向いた。


「まったく新しいパターンの認識になりますが……。はい、サンプルデータと先生の判定がそろえば認識アルゴリズムだけなら可能になる可能性があります」

「よし。じゃあ、具体的な課題の話だが。そうだな、まずはヒロインの朝子の情景に限定して――」


 俺が課題を説明しようとした時、『すいません、少しよろしいでしょうか』という声と共に目の前に情報窓が開いた。


 窓には部屋の外にいるらしい九重女史が映っていた。その表情はとても厳しいものだった。まるで、小説の初版販売数うちきりを告げる時の編集者のような。




「次のチャンネルの打ち合わせ? あれ、まだ時間は残っていると思ったんだが」

「はい。実はプロモーションに割り込みが入ってしまいました。そこで、申し訳ありませんが切り上げていただけないでしょうか」


 オフィスに出た俺に、九重女史が告げた理由は平凡なものだった。


「なるほど。そうだな……こちらもちょうど切りがいいところだった。ただ、彼女に宿題をだしていいかな、それだけ終われば」


 俺がそういうと、九重女史はほっとした顔で「ありがとうございます」といった。よほど急ぎだったらしい。そもそも、アリスにとってもこちらが本業だ。俺はバーチャルルームにもどると、アリスに先ほどの課題について宿題を出した。


 九重女史と入れ替わるようにしてバーチャルルームを出た俺は、そのままエレベーターに向かった。




 地下鉄に駆け込んだ。前髪の雨粒が地面に黒い斑点を刻む。それを見ながら、ここは雲間から光を照らすところだろうと、非科学的な不満を抱いた。こういう感情は雨に濡れることがないA.I.には無縁のものか、それとも形が違っても何か共通点はあるのか。


 不安を感じないかと言えば嘘になる。この課題から彼女が何を得るかは、俺には予測不可能だ。最初に約束した通り、俺に教えることが出来るのは技術だけだ。


 ただ、一つだけ言えることがある。登場人物の心を自分の中に見つけることはまさに小説のだいご味だ。もしも彼女が少しでもそれを感じ取れるようになるなら、きっと意味を持つはずだ。


 ホームから電車に乗り込んだ。出発と同時に車内のディスプレイが広告に切り替わった。そこに映ったものを見た瞬間、さっきまで頭上を覆っていた雨雲の理由が分かった気がした。


「沖岳幸基の新刊が出るのか」


 つり革の向こうに映し出されたハードカバーから俺は目を逸らした。もちろん、そうしたからといって雨はやまない。ただ、地下鉄の中にいる俺が濡れることはない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る