第7話 一番大事な文章(1/2)

 地下鉄の駅から地上にあがった俺は空を見上げた。天を突くような高いビルの上には重く暗い雲が垂れ下がっている。


 “梅雨の先触れのような重い雲からは今にも雨が降りそうだ。”


 おあつらえ向きの描写てんきだ。俺はそう思いながら、足早にビルの入口へ向かった。




「今回の授業は小説におけるキャラクターの心を現す文章についてにしたい」

「心理描写ということですか? しかし、前回の授業ではテーマから順番に小説を作成していくフローチャートが示されました」


 バーチャルルームの美しい教え子は、俺の言葉に小さく首を傾けて見せた。


「アリスが小説を書く上での一番の課題はテーマを設定できないことだ。それを解決するための方法を考えた結果、問題を一つ見つけた。それが、キャラクターの心を描いた文章の理解だ」

「問題ですか? 小説の中に登場人物、特に主人公の心理が多く描かれていることは理解しています。人間の心の中を直接描き出すことが文章媒体である小説の優位性であると認識しています」


 アリスは戸惑いの表情を浮かべていった。本当に呆れるほど優れた対人コミュニケーション能力だ。自分が納得していないということを穏便に伝えようとしている。


 彼女にしてみれば「次回のお楽しみ」なんて大口をたたいた教師が、小説全体のテーマから最小構成要素の文章への、正反対の方針を言い出したのだ。戸惑うのは無理もない。


「その理解は間違っていない。だけど、小説には登場人物の心を描き出す方法が二種類あるんだ。一つがアリスの言った心理描写だ。これは直接の場合もあるし、比喩などを使って間接的に描くこともある。ちなみに小説以外の文章にも出てくることがあるな。君がこれを理解していることは分かっている。だけど俺がこれから説明するもう一つは、おおよそ小説においてのみ出現する心の描き方だ。つまり、ある意味小説において最も重要な文章なんだ。そしてアリスはそれを読み取れていない」

「…………先生のご意見を肯定することは簡単ではありません。私は文章の理解に関しては必要十分な能力があると評価されています」


 アリスはそういうと唇を結んだ。「彼女は自分が感じた教師への反発を、控えめに示した」。直接描写ならそう書くだろう。だから俺は別のことをいう。


「一つ質問だ。なぜ今日は雨が降っている?」


 バーチャルルームに外の光景を写した。ビルに入る前に見た雲は、俺の期待に応えて雨粒を落としている。


「これまでの授業と質問の関連が全く類推できません。ですが、ご質問なので答えます。本日雨が降っている理由は、太平洋上の低気圧と日本列島上空の高気圧が接触したことにより前線が形成されたためです」

「そうじゃない。今外で降っている雨は、今日のこの授業が困難な仕事になると俺が考えているから降っている」


 授業の流れが全く理解できないのだろうに、アリスは指示に従った。そんな健気な生徒に対して、俺は無慈悲にも首を振った。


「―・・―・・―その二つの間に因果関係は成り立ちません。今日の天気が雨か、晴れかでこの後のタスクの難易度が変わるはずがありません。失礼を承知で言いますが、先生には天候を操作する権限はないはずです」


 アリスは唖然とした表情になった。上品に結ばれていた口が小さくポカンと開いているのが、彼女の受けた衝撃を現している。彼女が言葉を選ばなければ「あなたは正気ではない」ってところかな。


「現実ならそのとおり。だが、小説の世界では天気は作者の思いのままだろう。逆に言えば、その天気になったことには作者の意図が必ず含まれている」


 小説で、たまたま今日は雨だったなんてことはあり得ない。天下分け目の決戦に都合よく東南の風を吹かせることだって出来る。余談だが、三国志演技で描かれる「赤壁の戦い」は実際には、その千年以上後の「鄱陽湖の戦い」がモデルであるという説がある。歴史学上は、赤壁がどこかも確定できていない。


「小説の中で降る雨はしばしば天気の【説明】以上の意味を持つ。言い換えれば雨は外ではなく、キャラクターの心の中に降っているんだ。これが情景描写。今日の授業で説明するのはこちらになる」

「説明の追加をお願いします。正直に言えば私の自然言語処理機能が納得しかねています」

「実際に文章で説明しよう。前回の授業で使った織田信長をイメージして聞いてほしい」


 俺はホワイトボードに簡単な文章を四つ並べた。


①重臣たちとの長い会議を終えた信長は天幕を出て、目の前にある槙島城を見た。

②戦の勝利はもはや明らか、彼の悩みは城に籠る足利義昭をどうするかだ。

③その時、彼の目に映ったのは槙島城の背後に沈んでいく夕陽だった。


④翌日、陥落した槙島城で信長は足利義昭に追放を告げた。


「一連の文章の意味を理解できるか?」

「①は状況の説明です。登場人物と地名から、足利義昭が織田信長に反抗した『槙島城の戦い』だと推測できます。②は織田信長の心の中の説明です。彼は足利義昭をどう処遇するかを悩んでいます。将軍の処遇は極めて重要な要素ですので当然でしょう。③は信長が見た夕陽です。この出来事が夕方に起こったことを示している、と考えられます。④は戦闘の結果と、戦後処理です。織田信長は室町幕府を滅ぼしたということです」

「①と②そして④はその通りだ。①は状況の『説明』で②は信長の心中の『直接描写』だ。④は結果の説明。この三つは書かれている文章とその意味が一致する。だけど③だけは違う。信長はこの時、足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼすことを決断した、俺はそう“書いた”」

「…………私の理解では、そのような内容は③のどこにも書かれていません。ここに描かれているのは人間の心ではなく明らかに光景であり、意味するところはこのシーンの時刻です」

「確かに、このシーンの時刻は夕方だ。だが、この太陽は足利義昭、もっと言えば室町幕府も同時に現している。まず、そうでなければ前後の意味が取れない。②で悩んでいた信長が④で足利義昭を追放している。③がただの時刻の説明なら、読者は信長の悩みがどうやって解決したのか全く理解できない」

「確かに、この一連の文章には肝心な情報が抜けています。ですが……」

「信長が見ているのは天体としての太陽ではなく室町将軍の象徴としての太陽だ。それが沈んでいく以上、彼が幕府を滅ぼすことを決断したことは明白。いや、『室町幕府が滅びること』を受け入れた瞬間、と言うべきだな。信長がそこに寂しさや虚しさ、あるいは不安、そういったものが混じった感情を抱えている」

「そのような複雑で大量のデータを一文の中に込めるのは不可能……極めて困難だと思います。そもそも、仮にそういう情報を伝えたいならそう書くべきではないでしょうか」

「なるほど。③に

“信長は迷った挙句に室町幕府を滅ぼすことを決意した”

と心中を直接書けばわかりやすいだろう。あるいは、室町幕府を滅ぼすメリットとデメリットを並べて合理的な説明をする事もできる。だけど、ここで作者が描きたいのは信長のこの瞬間の心であり、思いだ。それを読者に伝えるにはこう描くしかない」


 俺はバーチャルルームの機能を使って、壁一面に夕陽を映し出した。そして、その夕陽をじっと見ながら説明を続ける。


「読者は文章を読みながら信長に寄り添っている。今まさに歴史を変える重大な決断を迫られている信長と同じ光景を文字を通じて見ているんだ。自分が信長だったらその光景に何を感じるのか。読者は自分の心の中に信長の心を探す。だからこそ、作者は直接書いては駄目なんだ。それじゃ、作者による読者への強制になる。だから、比喩表現すら使わずに、ただ信長が見ている光景を書く。これが情景だ」


 ちなみに、落日の色は橙色だろう。血のような赤だったら信長は義昭を殺しただろうから。


「先生がこの文章をそう言った意図で書かれた、それを否定することは私にはできません。ですが、この文章はあくまで説明のために作られた物です。小説ではないのではないかという、私の疑問が解消しません」

「なるほど。確かにこの文章はでっち上げだ。前後の情報から何から全く足りない。じゃあ、こういうのはどうだ実際の小説を使ってみよう。それも、君が以前チャンネルで紹介した『真宵亭のお品書き』だ」

「わかりました。一度分析した小説ですから、私としても理解しやすいと思います」


 アリスは二度頷いて同意した。瞳にわずかに挑戦的な色が見えるのは、俺の錯覚ではないだろう。


 俺が場所を指定するとホワイトボードに数行の文章が出た。小説の最初から六分の一くらいの位置。ヒロインである朝子が旅に出る直前のシーンだ。


 昨夜、恋人から告げられた別れの言葉は、昼間になってもまだ朝子の頭を占有していた。だからだろう、彼女は普段なら決してしないミスをする。運んでいた盆からグラスが滑り落ちそうになっているのに気が付くのが遅れたのだ。ガシャンという音と共に、床の上でグラスが砕けた。

 グラスの欠片は扇型に飛び散り、その鋭い断面は光を浴びて七色に輝いた。

 朝子は反射的に伸ばしかけた手を止めて、割れたガラスをじっと見た。

 彼女が退職願を書いたのは、その夕方のことだった。

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