第9話 初めての感想(1/2)
高級ホテルのような立派なトイレで鏡に映る自分の顔を確認した後、俺はメタグラフのオフィスに向かった。
「もしかして体調がすぐれないのではありませんか?」
「いや、ちょっと寝不足なだけだ」
バーチャルルームに入った俺の顔色をアリスは目ざとくとらえた。自分でも気づくか気づかないか程度の隈を、彼女の表情センサーは見逃してくれなかったらしい。
ハードカバーを一夜でというのは辛かったのは確かだ。だが、仕事の時間を自分でコントロールするのは作家の技能の一つだ。三日間あったのに、前日夜までページを開けなかった俺が悪い。
「体調が悪くなったらすぐにおっしゃってください」となおも心配そうなアリスに「だいじょうぶだ」と返した後、俺は彼女が提出した課題に向き合った。
『債券崩壊』の二十万字近い文字から選ばれた五つの文章がホワイトボードに並ぶ。内容を確認して、俺は沈黙した。
前回の『お品書き』と今回の『債券崩壊』は作風が正反対と言っていいほど違う。咲季の情景は豊かな色彩感覚でつづられた軽妙な描写、空に掛る虹のようなもの。対して『債券崩壊』の情景はいわば彫像だ。野放図に岩を削りだしているような文章は、凹凸に宿る重量を感じるほど重厚。
決して純文学的な高尚さを気取っているのではない。巨大ファンドの不祥事に対して、主人公が挑むそのストーリーは社会派ミステリの巨匠に相応しい硬派エンターテインメント。最後までページをめくる手を止めさせなかった。
「……問題があるとしたら五番目だけだ。それも不正解とは言えない。『お品書き』とまったく作風が違うのによく適応できたな」
他の答えがないかと言われればある。俺が五つ選ぶとしたら異なる組み合わせになるだろう。だが、彼女の選択は間違いなく主人公の情景を強く現した部分だ。
「ありがとうございます。情景描写という形式のメタ情報の存在、それにそのパターンを先生の授業のおかげで認識したためです。ただ問題があります」
「問題?」
「この二つの小説を同じアルゴリズムで判別できません。一つ一つの小説毎にアルゴリズムの構築をしていてはリソースが瞬く間に枯渇します」
「すまん。もう少し詳しく頼む」
「『真宵亭のお品書き』の情景を選択するアルゴリズムでは、『債券崩壊』の情景描写の選択が出来なかったからです。具体的に説明すると……」
写真に映ったリンゴを探すアルゴリズムとトマトを探すアルゴリズムが全く違うようなものらしい。A.I.の画像認識を切り替えて果樹園からリンゴを、畑からトマトを収穫するロボットを操作できても、食べ物は認識していないようなもの。
共通部分は元々彼女が持っていた文章解析能力とつながりが強い。これはロボットの操作部分に近いのだろう。
となると、リソース以上の問題があるのではないか。情景描写に込められたメタ情報は、厳密に言えば文中ではなく読者の頭の中にある。『お品書き』の七色に光る割れたグラスも『債券崩壊』のディーリングルームからのビル群も、読者の心中にある記憶や感情が描き出すのだ。
アリスの場合は、その中心にあるべき感情がない。全く異なる作風の二作から情景描写を選び出したところまでは良いが、彼女は情景を本当の意味では感じ取っていないということになりかねない。
「待てよ、確か感情を理解するためのモデルがアリスにはあるんじゃなかったか?」
「はい。私は喜怒哀楽を基準にした感情モデルにより言語に含まれる感情を感じ取ります。それは会話でも文章でも同じです」
言語と感情モデルはアリスたちViCの基幹であり、ViCは初期の二つの学習によってこのモデルを成熟させる。喜怒哀楽といっても単純に四つではなく、混じりあったベクトルになる。また、成熟の過程で個性も生じる。人間の感情を読み取り、感情表現で返すアリスの能力を知ると、それが素晴らしく機能していることは理解できる。
それでも、俺が感じたのはどこか感情版の視力検査のようなイメージだった。
ある意味では当然のことなのだろう。A.I.に征服されるわけにはいかない人類としては特に。
言い換えれば、彼女は自身ではなく人間のために小説を読んでいるということだ。人間に内容を紹介するための読書。なるほど、少しづつ問題が見えてきた。
「人間に関係なく、君自身が感情を感じることはないのか?」
「予測が外れた時には驚きや恐怖。まったく異なると思ったデータの間に関連性を見つけた時には、喜びや好奇心を感じます。例えば一回目の授業で先生からソフトウエア開発と小説の書き方に共通性があると聞いた時などです」
つまり彼女自身の感情はある。おそらく学習を効率よく進めるための仕組みなのだろう。人間だって感情と記憶は強くリンクする。恐怖とは危険なものを覚えておいて、次にそれに出会った時に避けようとする学習のための感情ともいえる。
「コミュニケーションのための感情モデルと、学習のためのアリス自身の感情モデル、その二つはどういう関係になっているのか教えてくれ」
「中心は共通です。状況によってどちらが優位になるか決まります。動的モードと静的モード。リアルタイムの対応が必要な場合と、時間をかけて検討する場合などに対応します」
「今回の課題に限らず、小説を読むときは静的モードか?」
「はい、全体的な分析が必要ですので」
感情というよりも理性、読者というよりも作家の視点だな、道理で先ほどの“分析”までは上手く行ったわけだ。
「さっき、俺の顔色に気が付いたよな。あの時は?」
「動的モードです。緊急時にはスピードを重視する判断が優先されます」
目の前に急病人がいたらという感じか。俺はただの寝不足だが。
「試しに動的モードで今回の課題をやってみてくれ」
「正答率が大きく低下することが予想されますが」
「それでいい」
「…………正答率が下がることに抵抗を覚えますが、先生がそう言われるのなら」
…………
新しく選択された文章が五つ、ホワイトボードに並んだ。
「なるほど、本当にボロボロになったな」
言葉を選ばずに評価すれば、それっぽい文章に反射的に飛びついたと言ったところ。さっきの精度は見る影もない。俺の想像以上に彼女は情報と構造を見ていたのだ。
ただ、一つだけ共通したものがあった。
“
ガラスの向こうには無数の檻が並んでいた。檻の大きさや高さは違っている。中に多くの動物がうごめているのは共通。そんな檻が、まるで鉄柱のように並んでいる。
宮本昭彦は西向きの窓を離れた。
振り返えると、整然とした綺麗なオフィスが見えた。そして、そのオフィスの向こう、東に向いた窓からは、東京のビル林が見えた。
“
構成上の位置としては一番重要なクライマックスに向かう直前。組織の一員としての自分と、個人としての自分のどちらを選ぶかという主人公の葛藤を描いたシーンだ。
債券崩壊の主人公宮本。彼の目に映る外の光景は動物園だ。宮本が振り向くと彼が職場のオフィスにいることが分かる。動物園の事務所? そんなわけはない。
読者は彼が檻と言っていたものが、ビルであることを知る。西の窓と東の窓に映っているのは同じ東京の光景なのだ。
自分が檻の中にいることを、外に並ぶ同じような
描写はすべて客観的なのに、主人公の心象風景が嫌と言うほど伝わってくる。極めつけにテクニカルでありながら、それを一切感じさせない練達の技だ。
彼女が異なる方法で共通して選んだのは偶然かもしれない。だが、その情景は俺が、睡眠不足の重い頭であっても、選ばざるを得ない一文だ。
「この情景に絞ろう。ここからアリスは主人公の心について何を感じる?」
「周囲の状況から考えて、彼は組織にとどまるか出ていくかの二つの選択の間で悩んでいます。同時に、とどまることと出ていく事の間に、違いがあるかに疑問を抱いています」
「その迷いに何を感じる?」
「感情モデルから、主人公が悩んでいることが推測されます。強いて言えば、悩むこと自体に疑問を感じているという、複雑な状況のようです」
アリスは首をかしげて、答えを繰り返した。
「この描写が何を意味しているかならアリスの解釈に文句はない。聞きたいのはその次だ。そこから君が何を感じたのか」
アリスは困惑の表情を浮かべる。
「正解のサンプルをください。どういう感想を抱くのか選択してもらうだけでいいです」
「それは出来ない。俺の感じたこと君の感じたことが一致する必要はない。いや、一致してはいけない。必要なのは君がこの主人公に感じたことだ」
内側の安定と拘束、外にある危険と自由、その二つの境界線で揺れているのに、その境界自体があいまいなものと感じる。不安、渇望、それが外と内のどちらにも存在する。複雑という単純な一言にならない感覚。まるで俺自身の目の前が揺れているような。
だが、俺はそれを口にしない。なぜなら作者はここで情景を選んだからだ。当然だ、あの沖岳幸基がこんな大事なことを“説明”するはずがない。
そして、だからこそ
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