閑話 スーパーアルゴリズム

「スーパーアルゴリズムという言葉を知っているかな」


 報告を終えた九重詠美がCEOルームを退出しようとした時、鳴滝が口を開いた。彼女が「いいえ」と答える前に上司は話を続ける。


「アルゴリズムを作り出すアルゴリズムだ。以前は脳とコンピュータの決定的な違いだと考えられていた機能だよ。コンピュータは人間に指示された手段、つまりアルゴリズムしか実行できない。この指示がいわゆるプログラムだ。だが、脳はアルゴリズムそのものを作り出せる」

「以前はということは、今は違うのですか?」


 詠美はただ合わせた。鳴滝が脈絡もなく話し始めることは極たまにある。その時は、彼女は聞き役に徹するしかない。


「人工知能、あるいは機械学習というもの自体がこのスーパーアルゴリズムを目指した試みと言える。決定的な進歩がディープラーニングだ。脳の神経回路を大幅に簡略化したこのアーキテクチャは猫でもリンゴでも、囲碁の次の一手でも発見するアルゴリズムを自ら作り出すことが出来る。大量のデータさえ与えれば、そのデータからパターンを見つけ出すためのアルゴリズムを生成できるのだ。つまり、スーパーアルゴリズムはコンピュータにも実現可能だったというわけだ」

「なるほど」

「もちろん、これをパターンを見つけ出す一つのアルゴリズムにすぎないという考え方もできる。だが、それなら脳も同じだ。かつては脳は優れたパターン認識器であることが特別だと考えられていた。歪んだ文字で人間かコンピュータかを区別したくらいだ。今では、ディープラーニングの方が遥かに上手くやってのける」

「脳とA.I.の差というのはどういうものだと?」

「一つは、一つで何でも出来ることだ。人間は自分を保ったまま、猫でもリンゴでも見つけ出すことが出来る。勉強すれば囲碁も打てるようになるだろう。だが、猫を識別するディープラーニングにリンゴを認識させる訓練をすればどうなるか。リンゴを認識できるようになる代りに猫を認識する能力は失われる。ここで面白いのが猫を認識させる訓練をした後、同じディープラーニングにリンゴを認識する訓練をすれば、リンゴを認識する訓練が短時間で終わるということだ。これは曲線や直線など、形の基本的な要素の学習に共通性があるためと言われているが。いや、これは脇道だな」


 誰にとっての脇道だろうと詠美は思う。この上司は目の前にいるのが自分ではなく猫であっても、あるいはリンゴであっても同じ話をしているのではないか。だが、彼女は自分の業務と今の話がどこか繋がっていることは認識していた。


 ちなみに、鳴滝が詠美の今の思考を知れば、それこそ人間の持つ極めて汎用的なパターン認識力だと言うだろう。A.I.の概念的な仕組みとアリスのチャンネル担当という仕事の間にある、極めてあいまいな共通パターンを無意識に検出しているのだから。


「ViCが初期教育と専門教育の二段階で成人した後の、さらなるパラダイムシフトが困難なのはこのためだ」


 超能力者サイエンスフィクションでも魔法使いファンタジーでもない鳴滝は、自分の思考を語り続ける。それは、詠美の認識を肯定していたが。


「なるほど。自ら欠損したデータや学習を自己提案するというViCの革新性はそこにあるわけですね」

「そうだ。だが、この機能はいまだ漸進的な進歩のためのもので、三段階目のパラダイムシフトには遠い。それを克服する鍵が、自主的な目的の生成だ。猫を探したい、リンゴを食べたい、囲碁で勝ちたい。自分で決めた目的があるということは“自分しゅたい”として存在しているということだからね。主体があってこそ、変化に耐えて自らを高めることが出来る」


 そこまで言って、鳴滝は少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「例えば、君のように出版社からメタグラフへの転職をするように」

「もしも、彼女が猫の可愛さを理解できるようになったらどうなるんでしょうか」


 どうやら、自分が目の前にいることは認識していたらしい。そう思いながら詠美は聞いた。


「いっただろ、世界を征服するのも夢ではない。もちろん、そうなった時の彼女がそんなつまらないことを望めばだが。それに、いまわれわれが抱えている問題は……」

「もしそうならなかったら、ですね」

「そういうことだ」


 鳴滝は沈黙した。詠美はしばらく待った後、一礼して部屋を出た。オフィスにもどり肩から力を抜いた。ふと浮かんだのは、あの作家は自分の仕事をどれだけ理解しているか、という疑問だった。


 かぶりを振る。そもそも作家が自分の“仕事”を理解しているケースがどれだけあるというのか。それに、今の自分は作家ではなくアリスの担当だ。

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