第35話 揺れにご注意

 パリを発つ日の朝、マクシミリアン・ロベスピエールは

見送りにきた幼なじみのカミーユ・デムーランと抱き合っていた。

「しばらく会えなくなるが、体に気をつけて

 元気な赤ちゃんを産んでくれ、カミーユ」


「マクシム、君も元気でね。くれぐれも体に気をつけて」

 妊娠後期に入ったデムーランは餞別のお返しに

マクシミリアンお手製の魔力のこもったレース編みのよだれかけや、

赤ん坊の頭に被せる帽子を贈られ、ついほろりとしそうになった。

だが馬車の中から鬼のような形相でこちらをにらんでいる、

ルイ・アントワーヌ・サン・ジュストと目が合った瞬間、

頭から冷水を浴びせられたような気分になった。


「マクシム、早く行こうよ」

と声をかけられた幼馴染マクシミリアンが華やいだ表情になり、

いそいそとステップを登っていく後ろ姿にデムーランの心の中では

憎しみとわずかに残る情がせめぎ合っていた。

身重の恋人(男)をひしと抱きしめながら

傲慢な天使サン・ジュストは見下すような目つきで

恋敵デムーランの方を見やると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

やがて馬車は動き出し、土埃を巻き上げながら去っていった。


「本当にこのまま、進んで行っていいものか?

 なんとかしてマクシムを正気に帰らせ、あの悪魔から

 引き離すことはできないものか?」

 デムーランは迷える心を持て余してバスチーユ監獄の

廃墟をうろつくのだった。



 揺れる馬車の中でマクシミリアンは真っ青な顔で

恋人(男)に抱きついていた。

「おぇー、この年で車酔いになるとは情けない」


「普段から寝不足なんだし少し眠ったら? 目に隈ができてるよ」

 天使は心配そうにマクシミリアンの顔をのぞきこんだ。

その表情を見た者がいたなら、善良で親切な人物だと

誤解したかもしれない。


「いやだ! せっかくのラブラブ旅行が!

 ああ、夕べあんないやな夢を見たりしなければ!」

 前夜、浮かれて床に入ったマクシミリアンは

久しぶりに幼い頃の夢を見た。母を失って悲しみに

暮れたあの日のことである。ジャクリーヌ・ロベスピエールが

難産の末、女児ともども命を落とした時、マクシミリアンは

6歳、シャルロットは4歳、アンリエットは2歳、

オーギュスタンは1歳の乳飲み子であった。

「ママ! ママ……!」


「エーン、大好きなママにもう会えないなんていやだ!

 それに私たちの小さな妹まで死んじゃった!

 パパも私たちを捨てていなくなるし……」

 姉たちにつられて、ゆりかごの中のオーギュスタンも泣き声をあげた。

父の蒸発は数年先だがこの夢の中では同時なのだった。


「シャルロット、アンリエット、もう泣くな!

 これからは兄さんが親代わりになってお前たちを守ってやる」

 シクシク泣きじゃくる妹たちをなだめているうちに

腹が猛烈に痛くなったマクシミリアンはうめき声をあげて

苦しみ始めた。姉と共に修道院学校に入学した後、

わずか13歳で急死したアンリエットの姿が

急にぼやけて見えなくなり、シャルロットとオーギュスタンが

大人の姿で駆け寄ってきた。二人は口々にこう叫んだ。


「兄さん! どうしたの? あの人でなし天使に

 何かされたの!?」


「兄さん、体が弱いのにお産なんてしたら

 ママみたいに死んじゃうわよ!」


 次の瞬間、夢から覚めたマクシミリアンは

現実でも腹痛で七転八倒するはめになった。

一瞬、助けを呼ぼうと枕元のベルに手を伸ばしたものの、


「うう、苦しい。だがこのことが知られたら、

 明日わしは連れていってもらえなくなる」

と思い直して歯を食いしばって我慢したのである。



 不幸な子供時代を思い出して急に心細くなった

マクシミリアンは


「ルイ、わしを抱いてくれ」

と弱弱しい声でつぶやいた。天使自身も新しい命を宿しているが

普段から乗馬や水泳で体を鍛えていたせいか体調には問題がなかった。

ためらう恋人(男)をその気にさせようと、マクシミリアンは

思い切った行動に出た。

「おや、こんなところにソーセージが。ルイの味がする」

 

「かじっちゃ、いやーん! 我慢できなくなっちゃうでしょ!」

 結局、愛し合う二人は密室の中で本番行為に及ぶこととなった。

下から伝わってくる揺れが快感を増して、

いつも以上に激しいプレイに励むうちに、

マクシミリアンの足元には血のしずくがぽたぽた

垂れて水たまりを作っていた。


 

 後続の馬車の窓から外を見たシャルロットは驚きに目を見張った。


「あらまあ、前の馬車がすごく揺れている。

 お腹の子に何かあったら大変だわ」


 ほどなくして宿場についた途端に、

血相を変えたサン・ジュストが馬車から飛び降りるのが見えたので

シャルロットはあわててそちらに向かった。


「シャルロットさん、手伝ってくれ!

 マクシムが急に倒れて……すごい血が出てる!」

 座席の上では死人のように青ざめたマクシミリアンが


「わしはもうダメだ。足手まといになるだけだから

 ル・バと交代してくれ……」

とかすれた声で言うのが辛うじて聞こえた。


「いやだ! 君はおれのつまなんだから、なんとしても連れていく!」

 天使は涙をこらえようともせず、恋人(男)の手を握りしめていた。

病人が宿屋に運び入れられると、シャルロットは従業員に

心付けを渡して医者を呼びに行くよう頼んだ。


「妊婦さんは男の方ですか……」

 医者は患者を見てしばし絶句していたが、

手際よく死児を体内から取り出した。


「血がたくさん出たので、しばらく安静にしていてください」

 そう告げて医者は帰っていった。


「ああ、わしらの子供が!」


「マクシム、愛する君がいてくれれば、おれは何もいらない……」

 相思相愛の恋人たちを二人きりにしてやろうとシャルロットは

そっと部屋を出て食堂に行った。


「はあ。このままじゃ兄さんは任務を果たせずにル・バと交代

 するしかない。これが歴史の強制力ってやつ……?」

 頭を抱える彼女は後からやってきて、向かいの席に

腰かけたのが誰だか見もしなかった。


「いい気味だわ。私に冷たくした罰があったんだ」

 エレオノール・デュプレは憎々しげにこう言い放った後で高笑いした。


「あんた、どうしてここにいるわけ……?」

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