第3話 灰色の世界に彩りを

 エラリーは川沿いの公園で目を覚ました。

「おはよう」

 アガサは既に着替えて準備を整えている。

 エラリーは四阿あずまやのベンチから起き上がって体を伸ばした。夜間に降り出した雨は既にあがっている。湿った空気が漂い、いまだ雨の匂いが立ちこめていた。

 川で顔を洗い、ペットボトルに水を補給する。シリアルで軽く腹を満たし、二人は再び西へ向けて出発した。



 川沿いの土手を朝焼けに照らされながら歩いてゆく。アスファルトの端にはヒナゲシやナデシコが何に邪魔されることなく可憐に咲いている。透き通る川の水も照りつける陽射しも碧空へきくうを翔ける野雁のがんも、それらはどこまでも平和的で、どこまでも優しかった。そこだけ切り取ればこれほど穏やかな世界はないだろう。


 右手側、北の街へと目を移せば、まるで別世界のような絶望的な頽廃たいはいが広がっている。あまりにも対照的で、どこまでも残酷だった。人間文化の失敗を嘲笑あざわらう象徴のようだ。



 食糧を調達する時は街中を歩くほうが手っ取り早い。廃墟であってもスーパーマーケットや飲食店には食糧が残っている。なまものは大抵腐ってしまっているが、缶詰や保存食ならば問題なく食べられる。

 河川敷の生活では川魚を釣ることもあったが、都合良く人数分釣れることはまれで効率は良くなかった。味気ない食事に彩りを添えるための贅沢ぜいたく品のようなものだった。



 街中には果物屋や八百屋が店を開けたまま放置されている。けれど店頭には既に何もない。カラスやらネズミやらが食いつくしてしまって、品切れを起こしている。一時は群れを成していたそれらも、品切れの店には用がないようで、今では閑古鳥が鳴いている。


 アガサとエラリーはスーパーにて食糧をリュックに詰め込んだ。あまり持ち過ぎると歩きにくいので、最低限度の量にしている。幸いにもスーパーは多く点在しているため、今のところ食糧の心配は無かった。


 着替えにしても洋服店に入れば簡単に手に入る。

「あ、これ!」

 アガサは店頭に飾られた服を指差した。

 白いワンピースと青いバッグを持ったマネキンがポーズを決めていた。

「これ、欲しかったんだよなぁ」

 アガサはガラスケースに手を添えて中を眺めた。

もらっていったら?」

 エラリーその服とアガサを照らし合わせた。

「似合うよ、きっと」

 そう言うエラリーに、アガサは首を振った。

「いい」

「なんで?」

「だって、動きにくいもん」

「そっち?」


 アガサは結局その服を眺めただけで歩き出した。後頭部で手を組んで、靴を鳴らした。

「あーあ、なんか価値観変わっちゃったなぁ」

 先に歩いていたアガサにエラリーは追い付いた。

「いいの?」

 アガサはうなずいた。

「いいのいいの」

「欲しかったんでしょ? 別に盗むってことにはならないし」

「いいの。もう必要ないから」


 店が建ち並ぶ商店街を二人は歩いた。

「服ってやっぱりたくさんの人が居る場所へ行くために着飾るものなんだよね」

 アガサはしみじみと語り出した。

「こんな世界じゃ、おしゃれより機能性のほうが大事だよ」

 エラリーに笑ってみせた。

「どんなに着飾ったって『黒い風』で一瞬で消えてしまうんだもん。服が守ってくれるならいいけど」


 二人が歩く道の所々に服や靴が散乱していた。消えてしまった人々の残した服たち。

 彼らが誰と何をするためにここに居たのか、どんな楽しみや喜びを持っていたのか、それはもう分からない。ガードレールや電柱に引っ掛かった服や、片方だけの靴だけでは、持ち主がどういう人間で、どう生きてきたかを知ることは出来ない。服にはその人のあかしが残らない。

 服は単なる無機物と化し、転がるペットボトルや紙くずと同じ価値しかなくなった。



「なんか、寂しいよね。あの服、カワイイって思えなくなっちゃった」

 アガサはしんみりとそうつぶいた。

「こんな灰色の世界じゃ」

 アガサは溜め息をつきながらも、すぐに気持ちを切り換えて、足を早めた。

「さ、早いとこ人を探さなきゃ」



 夕方、河原でき火の前にいたアガサにエラリーが近付いた。

「どう、釣れた?」

「はい、これ」

 エラリーはアガサに差し出した。

「なに?」

 エラリーの手には青い花があった。咲いていたネモフィラを摘んで花飾りを作っていた。


「わたしに?」

 エラリーは微笑んでうなずいた。

「うん」

「どうしたの、急に?」

「良いと思うんだ、着飾っても」

「えっ?」

「たまには女の子らしくさ」

 エラリーはアガサの頭に青いブーケを被せてあげた。

「うん、キレイ」

 アガサは少しうつむいて微笑んだ。

「……ありがと」

 エラリーはアガサの横へ座った。

「あー、おなか空いた」

「うん、ご飯にしよう」


 どんな世界であろうとも、誰に見せようとしなくても、着飾ることは悪いことではない。

 こんな世界になっても花は可憐に咲いている。



 二人は美しい夕暮れを見つめながら、可憐に笑い合った。




「ところで釣れた?」

「ごめん、釣れなかった」

「まさか、ごまかす為にくれたんじゃないの?」

「違うよ」

「やっぱ宝石のほうが良かったかなぁ」

「ちょっとぉ!」



 **



 圭吾は高校の帰り、土手の側面に腰掛けて河川敷を眺めていた。燃え尽きて地平線へ落ちてゆくような太陽がオレンジ色に輝いている。

「なーに見てんの?」

 背中から声がした。振り返らなくても桃葉だと分かった。


 桃葉はスカートを手で押さえて圭吾の横へ座った。

「リトルリーグ?」

 河川敷では少年たちがこんな黄昏たそがれ時まで練習している。

「先輩として練習チェック?」

 桃葉が言うと、圭吾は口先で笑った。

「まさか」

「こんな時間まで練習するんだね」

「球が見えなくなるまでやるんだよ。だから冬のほうが早く帰れたんだ」

「へぇ、そうなんだ」


 圭吾は小学校時代を思い起こした。

 土日も練習や試合で忙しない日々を過ごし、家に帰っても素振りを夜な夜なしたものだ。

「毎日泥だらけになってさ。母親がよく愚痴ってた」

「洗濯が大変だもんね」

「そう。『こんなに汚れるスポーツなのに、なんでユニフォームは白いのよ』って」

「ははっ、おばさんらしい」

「だろ? そんなの俺に言われても知るかって」

「ははっ」


 少年が球を打つと、圭吾の両手にバットから伝わる衝撃がよみがえった。守備の少年が打球を捕ると、圭吾の手にグローブから伝わる感触が甦った。勝った喜びはあまり思い出せないけれど、負けた悔しさは今でも鮮明に覚えている。


「野球、出来るよ」

 桃葉は黙って河川敷を眺める圭吾に優しくささやいた。

 圭吾は少年を見つめながら首を振った。

「いいんだ、もう」

「……ほんとに?」

 圭吾は暮れゆく河川敷をただ眺めていた。

「ああ……」


 泥だらけの少年を、圭吾はただ目を細めて眺めていた。


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