第八章
第31話 我先にワクチン打つ人?
いよいよ医療従事者へのワクチン接種が日本でも始まった。
ところが、ワクチンをめぐってクリニックでちょっとした騒ぎとなる事件が起きた。
アコガレクリニックは医師会に加入していないため、医療の情報がなかなか入って来ない。
コロナワクチンも例外ではなかった。
医師会に入っている病院のスタッフは、自院でワクチンを打つか、優先的に医師会会場などでワクチンが早く打てるようになっていた。
医療従事者は、一般より早くワクチンを打つように言われていたのだが、アコガレクリニックのスタッフは、ワクチンの予約が取れず不安な状態が続いた。
そんな中、院長は、セッカチさんと自分のお気に入りのスタッフのみ、併設している内科のドクターに頼んでいち早くワクチンを打ってもらった。
ワクチンの予約が取れないと焦っているスタッフの間で、こうした院長の行動に不満と落胆の声が上がった。
「自分たちだけ先に打ったの?」
「私たちも打てるように頼んではくれないの?」
パートさんたちが嘆いているのをよそに、私はセッカチさんから、院長が社員のワクチンだけは確保していると聞かされていた。
「ハナコさんも早く打てるように手配してあるのよ」
社員は休まれたら困るし、パートとは貢献度が違うからという理由であったが、パートさんたちの気持ちを考えると素直に喜ぶ事は出来なかった。寧ろ有難迷惑であった。
社員もパートも同じ内容の仕事をしているのに、こんな形で差別をしたら、クリニック全体の雰囲気が悪くなってしまう。
それに、今回は未曽有のコロナなので皆必死になっている。
「セッカチさんがコソコソあの子とワクチンの話をしているの」
ノンビリさんは、セッカチさんが社員とだけワクチンの話をしているのを見て心を痛めていた。
「自分は後回しにしてでも、従業員を先にワクチン打たせるものだよ。経営者失格だ~」
ヤンキーさんは院長が自分たちだけ先に接種した事を怒っていた。
看護師さんたちも口々に院長の行為を陰で非難していた。
こんな状況の中、つい最近までパートだった私が、社員になったからと言って、「自分はワクチンの予約をしてもらっている」なんてとても言えない。
何とかしてスタッフ全員のワクチンを確保できないものかと考えていた。
そんな折、母の付き添いで他院にいくと、顔見知りの看護師さんが待合室まで来て私に話しかけてくれた。
ワクチンを打ったか? と聞いてくる彼女に、私はアコガレクリニックの状況を話し、皆がワクチンを打てる方法は無いか?と相談してみる。
「うちのクリニックで出来るかも、あとで院長に聞いてあげる」
そう言ってくれる彼女が天使に見える。
「うちの院長に確認したら、アコガレクリニックのパートさん全員分のワクチンを確保してあげられる。だけど六人一組のワクチンだから、何人希望なのかはっきり決まってから連絡欲しい」
早速次の日、彼女がアコガレクリニックに来て知らせてくれた。
その後、医師会に入っていなくても院長か事務長が保健所に連絡して相談すれば、ワクチンを打ってもらえる病院を紹介してくれるようだ。と教えてくれた。
なるほど、そのほうがいいかも。
それで予約がとれなかったら、彼女のお世話になろう。
その日は日曜日で、院長とセッカチさんは休みだったので、リハビリのリーダーに私は相談を持ち掛けた。
ヤンキーさんも横でその話を聞いていて、早くワクチンを打てるよう院長に計らって欲しいとしきりに訴えていた。
リハビリのリーダーは、院長にどのように伝えればいいかと頭を抱えていたが、皆のために一肌脱ぐ事を約束して仕事に戻った。
ところがその日の夜、院長から驚きの全体ラインが送られてくる。
そこには、皆がワクチンの予約が取れないと嘆いていることに対しての非難と、院長が先にワクチンを打ったことへの言い訳が永遠と書かれていた。
そして、コロナの治療にあたっている人達や、高齢者のような感染及び生命のリスクが高い人達を差し置いて、接種できない事を騒ぎ立てるのは遺憾だ。こう締めくくられていた。
まるで、スタッフが悪いみたいじゃないか。
これには開いた口が塞がらなかった。
全体ラインが送られてきてすぐ、リハビリリーダーから連絡があった。
院長には、パートさんたちが、ワクチンの予約が取れない事で不満に思っているから、安心させて欲しい。
社員だけではなくパートの予約もとれるようにしてもらえないか?
あるいは、院長かセッカチさんが保健所に相談すればパートさんの予約も取れと聞きました。と伝えたそうだ。
それを聞いた院長は、“パートさんたちが不満を持っている”という言葉に反応し激怒してしまったらしい。
そのため、話がそれ以上進まず、他院でワクチンを確保してもらえるという話までこぎつけられなかったというのだ。
「交渉失敗だ、申し訳ない」
リーダーはため息をついた。
彼の伝え方も上手くはなかったのだろうが、それを差し引いても、院長がスタッフを大切に思う気持ちがあったら、彼女らの不安を解消する努力が先で、不満を非難するものではない。
それが信頼できるトップというものではないか!
私はそういう人の下で安心して働きたい。
その後ワクチン騒ぎは呆気ないほどすぐに収まった。
全体ラインで騒ぎを知ったスタッフの一人が、知り合いの勤めているクリニックに頼んで、パートさん全員のワクチンが打てるようにしてくれたのだ。
そのスタッフが皆から感謝されたのは言うまでもない。
私は余計な事をしてしまった。「とんだピエロだわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます