第29話 報われない思い

 若い理学療法士が次々とクリニックを去っていく中、そのしわ寄せは一人の人物に集約された。


 “やりがい搾取”の一番の犠牲者はこの人物かもしれない。


イケメン課長だ。


 最近の彼は、傍から見て感じ取れるほど元気がない。


 病院のために非効率なものは全て正す、固い意思のこもったぎらついた目は失われ、肩を落として手すりに寄りかかりながらため息を漏らす彼の姿は、以前を知る者が見れば非常 に物悲しいものだった。



 彼と院長は、大学病院に勤務していた時からの旧友だ。


 院長がアコガレクリニックを立ち上げる際には、真っ先にイケメン課長を頼り、迷うことなく大学病院を辞めて院長に付いていくと決めたらしい。


 そして共に病院を大きくするために全力を尽くすと誓い合ったと聞いている。


 実際、その働きぶりは、周りのスタッフが感心するほどのものだった。


 朝は7時に出勤してクリニックの玄関を開け、各階のパソコンの電源を入れて、診察室やレントゲン室の点検をする。


 これによって、開院ぎりぎりに診察室に集まる院長や、放射線技師、看護師たちが、安心して仕事に取り掛かることが出来た。


 夜は10時過ぎまでクリニックに残り、スタッフが帰ったあとの戸締りをしてくれる。


 毎日玄関周りの掃き掃除をし、年度末のクリニックビル内掃除、水槽掃除、電話点検、エレベータ点検などの立ち合いも、全て彼が一人で請け負っていた。


 院長からも事務的な仕事や雑事を任され、毎日朝、昼、夜と残業する。


 アコガレクリニックは祭日のみ休暇を取るが、イケメン課長だけは祭日もクリニックに来て仕事をしていた。


 それらは全て無給で行うサービス残業である。


 いつの日か不思議に思って聞いたことがある。


 「どうしてそんなに頑張るの?」

 そんな時、決まって同じ答えが返ってきた。


 「僕にとってはこのスタイルが普通なので」

 彼にとって、院長やクリニックのために尽くすことは当たり前のことらしい。


 いつなん時でも同じ方向を向いて、真っ直ぐに前を見つめる彼の眼差しに、私は密かに尊敬の念を抱いていた。



 しかし、ある日を境に、イケメン課長は「疲れた」と頻繁に口にするようになった。


 身体の調子が悪いと苦笑いしながら腰をさする彼の姿は、以前からは考えられないものだった。


 本人の口から直接聞いた訳ではないが、何やら院長と激しく揉めたらしい。


 院長は、スタッフが次々と辞めていく原因をイケメン課長の人柄に因るものとし、彼に与えていた権限のほとんどを取り上げてしまったというのだ。


 確かに彼の性格は決して完璧ではない。


 彼のキツイ指導が原因でクリニックを去ったスタッフもいる。


 私自身、歯に布着せぬ物言いに深く傷ついたこともあった。


 しかし、彼は特定の人だけでなく、自分を含めた全ての人に厳しいのだ。


 思い返せば、社会からずっと離れていた私は相当どんくさかった。


 パソコンは全く扱えない。


 仕事をする上で必要な常識も持ち合わせていない。


 イケメン課長は、そんな私を見捨てることなく粘り強く指導してくれた。


 「パソコンが怖い。出来ません」と言うと、「出来ないなんて言わない」と怒られる。


 「ハナコさんの話は長いです。業務連絡はもっと簡潔に話してください。同じことを何回も言っています」等々、口を酸っぱくして私に足りない部分を指摘するのだ。


 当時は随分失礼な人だと憤慨していた。 


 しかし沢山の仕事を抱える中、私のために貴重な時間を割いてくれていたことが今はわかる。


 私がまともに働けるようになったのは、彼の存在が大きい。

 だからこそ、そんな彼が疲れ切ってうなだれる姿を目撃する度に、私の心は酷く痛んだ。

 


 そんなある日、イケメン課長が体調不良を理由に休職を申し出た。

 全体発表でそれを知った時、私は胸に穴がポッカリ開いたような感じがした。



 休職に入る前の最後の出勤日。


 私はいつもより早く目覚ましをセットし、クリニックの門をくぐった。


 なんとなく彼がこのまま戻って来ないような気がしたからだ。


 こんな日だというのに、彼はいつも通り誰よりも早く出勤していた。


 箒を手に持ったまま壁に寄りかかり、ぼんやり宙を眺めている。


 私の存在に気付くと、少し驚いたような目で顔をこちらに向けた。


 「どうしたの? 今日はやけに早いよね」

 おどけた様に笑いながら、私にそう話しかける。


その表情を見た途端、息が詰まるような形容しがたい感情がこみ上げて、声を発することが出来なかった。


 「体調はどう? 病院で検査したの? 」

 辛うじて口をついて出た言葉は、ありきたりで平凡なものだ。

 


 「これから色々検査しようと思っているんだ、なんだか疲れちゃって働く気になれなくて」

 まるで言い訳するかのように、弱々しくそう答える。


 私は、何か気の利いたことを言おうとしたが、何一つ適切な言葉が思い浮かばなかった。


 彼との思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡り心が苦しくなる。


 励ましの言葉を言わないと。


 そう思っていたのに、口から絞りでたのは謝罪だった。


 「力になれなくてごめんなさい」

 彼が、どんなにここで頑張って来たか。


 報われない思いを抱えていたか。分かっていたのに……。


 あふれ出たのは後悔の念。


 助けてもらうばかりで何の力にもなってあげられなかった。

 むしろ足枷にすらなっていた気がする。


 「今更こんなことを言うのは適切ではないかもしれないけれど、イケメン課長がいたからこそ、クリニックは大きく成長したと思うの」


 しばらく沈黙が流れた後、彼は上を向いて大きなため息をついた。

 そして静かに言葉を紡ぎ始めた。


 「僕がどれだけ院長に尽くしてきたか……」

オープン時から全てを院長とクリニックに捧げる。それほどの情熱を注いで来たのに。


 「院長のために嫌われ役を演じて来たか……」

 自分が嫌われることで、スタッフの怒りの矛先が院長に向かないように守ってきたのに。 


 「危ない橋も渡って来た……」

 全てを懸けていたからこそ選んだ道なのに。


 「それなのに……」

 再び顔をこちらに向けた時、彼の目にはキラリと光るものがあった。


 「こんな仕打ちをされるなんて……」

 七年間の献身を仇で返されたことへの怒り、悲しみ、苦しみ。

 その全てが彼の表情に込められていた。


 私はどうしていいのか分からなくなり、ただ黙って彼の顔を見つめ次の言葉を待った。


 数分後、イケメン課長はふと我に返ったように苦笑いをした。

 そして、こんなことを私に問うた。


 「最後だから聞くけれど、ハナコさんはここで社員になるってどういうことか分かってる?」


 「えっ? どういうこと?」


 以前、私が社員になると報告した際も、同じようなことを聞かれたのを思い出した。

 その時は深く考えることはなかったが、今は気になって仕方がない。


 「いつか話せる時がきたら」

 首を傾げる私に謎の言葉を残し、彼はその場を後にした。



 イケメン課長は、何年か前にどこかのプロ野球の遠征顧問として、半年間一緒についてきて欲しいと声がかかったことがある。


 その時周りにいた者は、こんなチャンスは二度とないから引き受けた方が良いと進めていたのだが「院長が僕を手放すわけない」と断ってしまった。


 もったいない話だと、周りは口々に言っていたが、あの時挑戦していれば何かまた違う人生が待っていたのかもしれない。


 誰よりも信じて尽くして来た人に裏切られ、イケメン課長はクリニックを後にする。


 その後、彼は休職から戻ることは無かった。


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