第3話 玉
遠い昔の記憶を掘り起こしていると、あっという間に鵠沼海岸駅に着いた。
懐かしいな。20年前とはそんなには変わっていないかな。
細い商店街を通る。
私の今は亡き友人の息子がやっている喫茶店はまだあるかな?
孫はこの駅は初めて降りる。
「おじいちゃん。ネットで見たけど、やっぱりここら辺の道は凄い狭いね。
土日は海岸近くの駐車場はすぐ一杯になるし、道も混むらしいから、電車で着て正解だよ。」
「そうだな。ここいらの道は、昔の人力車の幅で造られたままなんだろうな。」
おぉ。まだやっていた。
この喫茶店。いやいや懐かしい。
二人は昭和の趣の残る喫茶店へと入った。
カランカラン~
店内に入ると長髪を結んだ、白髭のマスターがカウンターから驚いた様子で出てきた。
「これはこれは、お久しぶりです白藤さん。
びっくりしましたよ。
お元気そうで良かったです。」
「お久しぶり。また会えて嬉しいよ。」
席に着くと、すかさずモカジャバを頼んだ。
老人は昔、ここに来る度にモカジャバを飲んでいた。
コーヒーのいい香りだ…レコードからは
エディット・ピアフの「パリの空の下」が流れている。
その懐かしい空間に老人は溶け込んで行った。
孫はそれを察知して黒子のように祖父を見守っていた。
昭和十一年
男は拳銃をしまった後に、お茶を一口飲むと話し始めた。
「我々皇道派は、この国を憂い、弱者救済の為に立ち上がりました。しかし天皇陛下のお心には届かず、逆賊とされてしまいました。」
「自分は軍服を着ていますが、今は民間人です。通っていた陸軍士官学校を中退して、軍を抜けました。
私の名前はあなた方は知らない方がよいと思うので、伏せさせてください。
陸軍での階級は曹長でした。
軍を抜けた理由は詳しくはお話し出来ませんが。上官の勧めです。」
「直属の上官は玉〈ぎょく〉(第1師団)の歩兵第1連隊の人間です。」
「ご存知でしょうが、この度の事を起こしたのは我々です。
自分の上官は本日投降し、中隊は帰順しましたが、自分ともう一人の中隊の人間は既に民間人である事もありますが、今後の昭和維新続行の為、再起するその日まで脱出して命を待てと告げられたので、こうして逃げているのです。」
「…そうでしたか。
あなた方の気持ちは重々分かります。
玉の人達も今回の件に関わっていたのですな…それで、これからどうするつもりだったのですかな?」と父が聞く。
「明日の朝、私と同じく脱出した仲間と上野の寛永寺の彰義隊の墓で待ち合わせをして、上野駅から汽車で茨城に逃げるつもりです。」
なるほど、しかし外はこの寒さだ。今日はうちに泊まっていきなさいと父が提案をした。
すると男は申し訳ない助かりますと言って、金を出した。
父はいらないと断ったが、一度出した物は引っ込められないと男が言うから、父が背広を持ってきて、お金をもらう代わりにと、それを渡した。軍服は目立つと思ったのだろう。
その時、青年は上野駅の様子を思い出した。
上野駅は軍隊や警察が沢山いて危ないのではと思った。もしかしたら特高(特別高等警察)も取締りをしているかもしれない。
青年が口を開く
「上野駅は危なくないですか?
26日ですが、多くの兵隊がいましたよ。」
確かに、事件を起こした兵はもちろんの事、
民間人の思想家達も陸軍や警察が検挙し始めるだろう…
そう考えた父は青年に明日、寛永寺へ行き男の仲間を探して、見つけて家に連れて来いと言った。
それを聞いて男はそれには及ばない。もし見つかったら、あなた達もただでは済まないと声を荒げた。
しかし父は今の日本の情勢はわかっているし、華族のはしくれとはいえ兵役に就き戦争を経験して、その悲惨な戦場の矢表に立っているのは、貧しい農村の次男、三男が多い事も知っている。今の政府のあり方を良しとはしない。少しでも協力させて欲しいと、男を説き伏せた。
男は深々と頭を下げて、それでしたらお願いしますと告げた。
ただ、もし見つかった場合は自分に脅されたと言ってくれ。そして自分は捕まるくらいなら頭を撃ち抜くと、眼を光らせてそう言った。
その後、男は青年に
「明日はよろしく頼む。
仲間を連れて来てくれ、信用しない様ならば、合言葉を言ってくれ。
合言葉は尊皇討奸だ。」
それを聞いて青年は頷いた。
「よし。それでは夕食にしよう。」
父がそう言うと、男はコートと靴を脱ぎ、軍刀を外し、拳銃をホルスターから出すと、ズボンに直接差し込みながら、土足で上がり込んで申し訳ないと少し恥ずかしそうに謝罪した。
すると母は気を使って、靴は磨いて裏の縁側に置いて起きますね。と言って汚れた靴を持って行った。
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