第12話 主張しろ
蒸し暑い森の中、日野は元の世界にいた時のことを思い出していた。
家と会社の往復で、通勤は電車。たまに友人と遊ぶ以外には、休みの日も殆ど家から出なかった。
ここ数年、運動というのを全くしていなかったために体力がほぼ無い。
そんなことを考えていると、突然、視界がグラグラと揺れ始め、目の前の景色がぼやけていった。
フラッと身体が浮いたかと思うと、何かに支えられたような気がした。
「ったく、疲れたら言えってあれだけ言っただろうが」
バシャっという音と同時に、ひんやりと冷たいものを顔に感じて、日野はハッとした。
顔から水が滴り落ちる。視界の揺れは収まったが、身体に力が入らず、日野はグレンに支えられたまま動けずにいた。
「すみません。ちょっとフラッとしちゃって」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
グレンは溜め息をつきながら、ひょいと日野を抱えると、木陰に座らせた。
屈んで顔色を見ていると、隣からハルが心配そうに日野の顔を覗き込んできた。
アイザックの病院を出て一晩経った。次の街までは歩いてニ、三日かかる。
昨日は元気に街を出発したのだが、今日は昼ごろから日野の様子がおかしかった。
疲れたら言えと何度も言っていたが、この女は何も言わなかった。
そのため、気にはしていたが、そのまま歩き続けた。しかし、慣れない旅でこの暑さだ。小さな体で歩き続けて疲れないはずがなかった。
「主張しろ、主張」
そう言って、グレンはベシベシと日野の額を叩いた。ハルがずっと心配そうに日野の顔を覗き込んでいたため、深緑色の髪をクシャッと撫でた。
「休めば大丈夫だ。心配するな」
「ごめんね、ハルくん。グレンさんも、すみません」
「休憩だ。このままここで野宿でいいだろ。ハル、アルと一緒に水汲んでこい。無くなった」
「まかせて!」
ハルはグレンからボトルを受け取ると、近くを流れていた小川へ駆けて行った。
「……すみません」
そう言うと、日野はシュンとして俯いた。視界も頭もはっきりしてきた。
しかし、身体は動かなかった。グレン達と一緒に旅に出たのはいいが、体力のある二人について行けず、足手まといになってしまって悔しかった。
俯いたままの日野を見ながら、グレンは再び溜め息をつき、リュックを下ろすとその場に座った。
「仕方ないだろ。おばさんは体力ないんだから」
「おばさんじゃありません。二十七歳です」
否定すると、フッとグレンが笑った。そんな彼に、日野は力なく言葉を続けた。
「せっかく旅に誘ってもらいましたけど、足手まといですよね。やっぱり私、戻った方が……」
「連れてくって言ったのは俺だ。黙ってついて来い」
「でも……」
「あと、その言葉遣い何とかならないのか。気持ち悪い」
「でも、グレンさん……」
「でもじゃない。さんも付けるな。また水かけられたいのか」
日野の言葉は全てグレンに遮られた。
一緒に旅をしたい。だが、足手まといになるのは嫌だ。日野が涙を浮かべながら顔を上げると、グレンの手が日野の頭をグシャグシャと撫でた。
「気を遣うな。我慢するな。わかったか?」
「……ありがとう、グレン」
ポロポロと涙が溢れた。慣れない世界で、気付かぬうちにストレスも溜まっていた。
気にしないように、気づかないように、そうやって自分を誤魔化していたが、限界だった。
「しんどい」
「しんどいなら休め」
グレンが三度目の溜め息をついた時、小川の方から戻ってきたハルの声が森に響いた。
「あー! グレン、お姉ちゃん泣かせた!」
「俺じゃない。こいつが勝手に泣き出したんだ」
「女の子泣かせちゃダメだよ、グレン」
「だから俺じゃない……」
持っていたボトルをドサッとその場に落とすと、ハルは日野に駆け寄り、顔を覗き込んだ。
「大丈夫? グレンは口が悪いけど、気にしないでね」
「大丈夫だよ。お水汲んできてくれてありがとう、ハル」
日野がそう言うと、ハルは一瞬目を丸くしたが、すぐにニッコリと嬉しそうに笑った。
「じゃあボク、ショウちゃんって呼ぼう」
「え?」
「ショウコでしょ? これからはショウちゃんって呼ぶね」
ハルは小さな両手で日野の手を握り、よろしくね! と言いながらブンブンと振った。よろしくと日野が返すと、ハルは満足げに微笑んだ。
その奥で、地面に落ちたボトルを、本日何度目かの溜め息をつきながら、グレンが拾っていた。
それが何だかおかしくて、日野はクスクスと笑い出した。
緊張の糸がほぐれていく。限界だと思っていたのが嘘のように、心がほっこりと暖かくなり、力が戻ってきたのを感じた。
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