第8話 夢じゃなかった

 チチチ、と小鳥のさえずりが聞こえてきた。病室内には、カーテン越しに柔らかい光が届いている。


 まだ半分しか開いていない瞼を擦ると、日野は薄い布団をバサリとめくった。


「……夢じゃない」


 起き上がり、ベッドから出る。閉じたままのカーテンに手をかけると、ゆっくりと開けた。


「夢じゃない」


 昨日見た時と同じ。見知らぬ街の奥に広がる広い森。これからどうしようかという不安もあった。


 だが、元の世界に戻っていなかったことに安堵してしまった自分もいた。なんとも言えない複雑な気持ちになる。


 黒く長い髪を手櫛で整えると、日野は洗面所へ向かった。


 昨日の夜に教えてもらったのだが、一階のトイレの側に洗面所がある。シャワールームもその並びにあったため、昨日の夜もシャワーを使わせてもらった。


「お姉ちゃ……おはよ」

「おはよう」


 日野が洗面所へ入ると、ユラユラと左右に揺れながら、まだ半分夢の中にいるハルが立っていた。濡れないように縛っている前髪も、眠たそうに下を向いている。


 ユラユラと洗面台に近寄ると、手を伸ばして蛇口を捻り、バシャバシャと顔を洗い始めた。


 寝ぼけているせいなのか、単に顔を洗うのが下手なのか、ハルの足元には腕から伝い垂れた水がどんどん溜まっていった。


 再び手を伸ばしてキュッっと蛇口を閉めると、大きな瞳がパチリと瞬きをした。目が覚めたようだ。しかし、顔まわりもシャツも見事に濡れてしまっていた。


「ベチャベチャだよ」


 そう言い、日野は近くの棚に整頓されていたタオルを手に取った。


 濡れた身体を拭いてあげると、ありがとうと言いながらハルがニカっと笑った。


 ついでに床も拭きながら、ふと腕に着けていた時計を見た。時刻はまだ六時過ぎ。


「それにしても、早起きだね」

「うん、さっきグレンに起こされた。今日は買い物するんだって。お姉ちゃんの」

「え? 私の?」


 何かを買って欲しいなどとねだった記憶は無いが、何だろうか。そう思っていると、湿った髪を拭きながらグレンが現れた。


「おい、ハル。顔洗ったなら着替えろ。おばさん、お前もさっさと顔洗え。出かけるぞ」

「おば……おはようございます。あの……出かけるって、私の買い物って何でしょうか?」


 おばさん呼ばわりにカチンとしながらグレンにそう問いかけると、不機嫌そうな顔が更に眉を寄せた。


 どうやら寝起きは悪いようだ。早くしろとだけ言うと、グレンはそのまま去って行った。


「じゃあ、ボクも準備して待ってるから」


 そう言うと、ハルもグレンの後を追って出て行った。日野は静かになった洗面所で手早く顔を洗い、改めて髪を手櫛で整えた。


 黒く長い髪は、つややかに真っ直ぐと伸びていて、絡まることなくサラサラと流れた。


 鏡に映った自分の顔は、いつも通りの無表情ではあるが、心なしか楽しそうな感じがした。


 何も変わらない、同じ事の繰り返しだったつまらない日々が突然変化した。


 心のどこかで、望んでいたのかもしれない。こんな日が来るといいなと。


 日野の中で、不安や好奇心が渦巻いていた。使った洗面台を綺麗にすると、借りた部屋を片付けに、二階へと戻っていった。

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