第3話 異世界
体は軽い掛け布団に覆われていた。サラサラと肌触りの良いシーツの感触から、自分が今ベッドに寝かされていることが分かった。
部屋の壁は天井と同じ白色だった。ベッドの脇には白いテーブルが置いてある。見た目だけで判断するとすれば、ここは病室だ。
窓の外からは熱い日差しが差し込んでいて、室内を明るく照らしていた。ふと窓辺へ視線を向けると、その光の強さに目が
光を遮るため、目元を隠すように左腕を
あれからどのくらいの時間が経過したのか分からなかった。突然頭に襲いかかった激痛は、いとも簡単に意識を奪った。そのまま倒れてしまったところまでは覚えているが、我が身に起きた出来事を理解できている訳ではなかった。
意識を失う直前に見たのは、確かに少年だった。だが、知った顔ではなかったのだ。あれは一体誰だったのか……なんてことを考えても、答えは出なかった。
「あの子は……」
ポツリと呟きながら、無理矢理にでも記憶を呼び起こそうと試みた。しかし時間が経てば経つほど、少年の姿は薄ぼんやりとしか思い出せなくなっていった。
そんなことをしているうちに、日野は自身の荷物が無くなっていることに気が付いた。ちょうど仕事帰りで、バッグは持っていた筈なのに、見当たらない。
もしここが病院なら、保険証の提示を求められ、更に支払いも発生する。そんな展開が容易に想像できた。
日野は、しばらく眠っていたことで幾分軽くなった体を起こし、ベッドから出て荷物を探そうとした。すると、背後からガラリと戸の開く音がした。
慌てて振り返ると、そこには白衣を着た長身の男がいた。男は片腕にトレーを乗せていた。逆さにしたグラスと、水の入った瓶が乗っていて、今まさにここへ運んできたようだった。
一目で医者と判断できたため、日野は今いる場所が病院であると確信した。すると、医者がニッコリと微笑んで口を開いた。
「目が覚めましたか」
「あ、あの。ありがとうございました。もう大丈夫そうです」
日野はお礼の言葉とともに深々とお辞儀をした。そんな日野を見つめながら、医者はまだニコニコと微笑んでいる。いかにも"優しい人"という雰囲気の男性だった。
だが、日野はそんな医者に妙な違和感を感じた。彼は、青い瞳をしていたのだ。髪色は黒に極めて近いが、光に当たっている部分はほんのりと青みがかっていた。そのせいか、何だか違う国の人間のように思えたのだ。
しかし、言葉は通じていた。ひょっとするとハーフなのかもしれない。そんなことを考えていた日野の顔を、医者はまじまじと見つめていた。そして、安堵したように息を吐いた。
「そうですか。顔色も良さそうですし、安心しました。あなた、森の中で倒れていたそうですよ。街に来た旅商の夫婦が、偶然あなたを見つけて運んできてくれました。こんな暑い日ですから、熱中症にでもなったんでしょう。気をつけてくださいね」
柔らかい口調で医者はそう言ったが、日野は記憶と異なる状況だったことに首を傾げた。
「森? あの、私は公園にいたはずですが」
「公園? 聞いた話と違いますね。この街に公園はありませんし、それに似た場所もありません。この辺りの子どもは皆、森で遊びますから」
医者は、ベッドの側のテーブルにトレーを置きながら、はて? と、不思議そうな顔をした。そして、スラリと長い彼の指が、窓の外を指差した。
「ほら、あの森ですよ」
日野は振り返って窓に近付くと、そっと窓枠に手をかけた。薄いガラスの向こうを見ると、そこには見知らぬ街が広がっていた。そして、その街の奥には、確かに森があった。
「……うそ」
見間違いではないかと何度も目を擦った。しかし景色は変わらなかった。日野の目に映っていたのは、行ったことも、見たこともない街だった。
「大丈夫ですか? もしや、この街に来るのは初めて?」
「初めてというか、全く知らない街というか。私、どうやってここに来たのかすら分からないです。救急車で運ばれたんですか?」
「救急車?」
医者は、聞き慣れない"救急車"という言葉に首を傾げた。目の前の女が何を言っているのかが、理解出来なかったのだ。
困惑している日野を見て、医者はしばらく考え込んだ。そして、良いことを思いついたというように、ポンと手を打った。ニコニコと笑みを浮かべたまま、医者は人差し指を立てて言った。
「まあ、小さな街ですが、気分転換にぶらついてみてはいかがですか? 何か思い出すかもしれませんし」
「そ、そうですね。あ……でも、お金払ってないし。私の荷物はどこにありますか?」
「荷物は預かってませんね。旅商も街を出てしまいましたし……私にも見当がつきません」
医者の返事を聞きながら、日野はくるくると病室を見回していた。だが、バッグはどこにも見当たらない。服のポケットも探してみたが、財布も携帯も持っていなかった。
このままではお金が払えない。マズいことになったと焦った日野は、服のポケットをバタバタと何度も叩いた。何か持っていないかと確認するが、何も出てこない。
次第に青ざめていく日野の表情を見て、医者は眉を八の字にして笑っていた。
「診察代なら気にしなくていいですよ。あなたを助けた旅商の夫婦には、私も良くしてもらっていますから。それに、最初からお金を受け取るつもりはありませんでしたし」
「すみません、本当にすみません!」
必死に探してはみたものの、やはり何も持っていなかった。あるのは、着ているスーツと使い古した安い腕時計だけだった。
すぐに払えるアテもないため、この場は平謝りする他になかった。今にも泣き出しそうな顔で、日野は何度も謝った。すると医者は、笑いながら水の入ったグラスを差し出した。
「まあまあ、落ち着いて。喉も渇いたでしょうから、しっかり水分を摂ってください」
「ありがとうございます」
日野はぐすんと鼻をすすり、涙目のまま、差し出されたグラスを受け取った。ひんやりと冷たいそれが、熱のこもった手には心地良かった。そのままクッと一口飲むと、体の中を冷たいものが通り過ぎていった。
「あなたが倒れていた詳しい場所までは聞かなかったので、荷物については分かりません。何も持っていないとなると困るでしょうし、いつでも頼って来てくださいね」
「何から何まで、すみません」
「いえいえ。あ、自己紹介をしていませんでしたね。私はこの街で医師をしているアイザックです。ザック先生と呼ばれています」
そう言って、アイザックと名乗った医師は、相変わらずニコニコと笑みを絶やさずにいた。
アイザックという名前に、見知らぬ土地。ここは海外なのかという疑問が浮かんだ。しかし、公園で倒れただけの一般人が、海外まで運ばれたなんて話は聞いたことがなかった。それに、ここが海外なら、言葉が通じていることにも違和感があった。
まさか、本当に異世界に来たとでもいうのだろうか。違う世界に行きたいなどと願ったせいか。確かに不思議なことは立て続けに起こっているが、ここが異世界だという確信は持てなかった。
貰った水を飲み干して、日野はぐるぐると思考を巡らせた。
すると、アイザックが日野の手から空になったグラスを取り上げた。そして再び水を注いで、手元へ戻してくれた。喉が乾いていたため、ありがたかった。アイザックから冷たいグラスを受け取ると、日野はそれを一気に飲み干した。
「私、
自己紹介をして、改めて頭を下げた。アイザックは、どういたしまして、と言いながらニコニコと笑っていた。
それから二人は少し話をした。日野を助けた旅商は、もうこの街を出て行き、どこにいるかは分からないらしい。
そこで日野は、元々住んでいた地名や街並みをアイザックに伝えてみた。しかし、アイザックはそんな街は聞いたことも見たこともないと言った。不思議な青い本についても、同じく首を横に振った。
その後、再びアイザックに、街を見て回ったら気分転換になると言われ、日野は半ば追い出されるように病院を出た。
◆◆◆
静かになった病室。ベッドに腰掛け、足を組み、アイザックは首を傾げていた。
「記憶が混乱しているのか、はたまた本当に別世界から来たのか……青い本の話、それが本当なら……」
アイザックは日野に、夕方には戻るようにと伝えていた。しかし、言いつけ通り戻って来るかは日野次第だった。
アイザックはこれまで、さまざまな患者を診てきた。中には、記憶に障害のある患者もいた。物忘れの症状もよくあることだ。だが、別世界から来たような話をするケースはほとんどない。
そんな話をしたのは、これで二人目だった。
一抹の不安が頭を過るが、考えたところで答えは出なかった。
「ま、しばらく様子見ますか」
諦めたようにそう言うと、アイザックは「よっこらしょっ」と立ち上がった。そして、にこやかな笑みを浮かべて病室を後にした。
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