どうしてこうなってしまったんだろう


「おい、もうやめろ!」


 雨が地面を叩く。

 それでもその少年は構わず目の前の、年上の子を殴っていた。何度も、何度も殴り付ける。


「やめろ! これ以上やってもどうにもならん!」


 水で濡れたアスファルトに血が滲む。

 殴られているのはやや小太りの少年だった。目に生気はなく、左肘の内側には痛々しい注射の痕が幾つもあった。


「ふざけるな、お前、こんなことをして──っ、まだ、年端もいかない少女を! ……クソッ!!」


 崩れゆく体を掴みあげ、少年はまだ拳を振り上げようとする。

 だがその前に、後ろから老兵──リースが腕を掴んで制止しようとした。


「こいつを殴ったところでどうにもならないだろ。少しは頭を冷やせ馬鹿野郎」


「だが、今ここでこいつを殴らなきゃ、誰かがここで殴らなければ、また同じ過ちを犯してしまう!」


 あの時の少年のセリフを思い出す。


 ──あの子が、い、いきなり僕の手を掴んだんです。そ、そしたら気が動転しちゃって……幼馴染の子にそっくりだったんです。『大丈夫?』だなんて、『おててを繋げば安心だよ』だなんて、そんなこと言われたのが、初めてで──。


 土塊の中には、裸体になった少女がバラバラの死体となって埋まっている。

 尊厳も何も残っちゃいない。

 こんな姿、少女の両親にはとても見せられない。

 犯人は規則上、都市内で隔離される。きっとおそらく、被害者遺族は犯人と会うことなくこの凄惨な事件は終わりを迎えてしまう。


 被害者の禍根を残したまま、終わってしまうのだ。


「俺は、この子の両親の分まで殴らなければいけない。そうしなければ、俺だって気が済まない……ッ!」


「──!!」


 不穏な雰囲気を感じたリースは、その両手で少年――御幸の頬を叩いた。

 対して痛くもない鈍い痛み。

 こんな痛み、被害者の少女に比べたら、否、比べることすら烏滸おこがましい。

 だが御幸にとって、その痛みは効いた。


「お前だけが苦しいわけじゃねえ……ッ。俺だって、久しぶりに腑が煮えくり返しそうな気分だが、それでも俺たちは『異能課』だ。個人的な私刑は御法度だ。徹底的に隔離して、罪を償わせる──俺たちが出来るのはそれだけだ」


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」


 数秒間の葛藤の末、御幸は少年を手放し、振り上げた拳をどこに八つ当たりすることなく、それらを飲み込んだ。

 あれから御幸は変わってしまった。中学が廃校になって以来、更に御幸は正義を執行していた。その心中には『救えない人はいない』という黄金にも等しい気高き理念があった。


 だが時折、感情を抑えきれずに暴走することが多くなった。

 その犯罪者は主にや、犯罪者に向かってのものだった。激しく激昂し、他の隊員がやってくる間に半殺しにしていたという事例も多々ある。


 今はこうしているが、まだ能力を暴走させていないだけマシかもしれない。


「……お願いします。助けてください。もう二度としませんから……助けてください。痛いのは、いやです」


 呆然としていた少年が、目に涙を浮かべながら囈言うわごとのように呟く。

 ──どの口が、とリースは目の前の少年を蹴り倒してやりたいほどの衝動を抑える。

 だが、なけなしの心のどこかには、可哀想だと言っている自分もいる。


 少年の家庭環境は劣悪で、少年の心の拠り所は少なかった。

 そうしてその拠り所は薬物へと移り変わってしまい、能力を秘匿していたのも、都市に入れば拒絶していた外に出るからだろう。


 未だ能力者狩りが行われ、都市外の治安はまだまだ火種が多い。

 心を閉ざしてしまった能力者も少なくはないのだ。

 朝戸首相による手腕で改善されてはいるが、現状、まだまだといったところだ。

 仕方がない、と割り切ってはいるが、それでも、どうしてもだ。

 この少年も被害者なのだと、そう──思ってしまう。


「……約束しろ」


 御幸の口が開いた。


「これ以上誰かを傷つけるな。真っ当に働いて、真っ当に生きろ、もう二度と──こんな過ちはするな」


 祈りに近かった。そうだ、御幸は今祈っているんだ。

 目の前の少年に、真っ当に生きろと、祈っているのだ。

 それが被害者側からすればどんなに腹立たしいことか、彼自身よく分かっているだろう。だけどそれでも御幸は止めない。己の正義を信じる限り、御幸は救うと決意している限りは。


 神代御幸、十五歳の時である。

 全てを狂わせたあの男と対立してから、一年が過ぎようとしていた頃だ。


 ◆


 康二が授かった異能は空間に作用するSSランク能力──『即興性正義インプロブ・ディストーション』。


 ──


 そうあの人は言っていた。未だもって康二には完璧に扱いきれないが、そんなこともはやどうでもよかった。手当たり次第、思うがままに壊れていく世界を見ながら、どこか俯瞰している自分がいることに気づく。


 これが本当に自分がやりたかった事なのだろうか。

 大金を払い、大切なものも失い、その果てがこの破壊なのだろうか。

 そう考えてくるとやりきれなさが残る。乾燥して固まった泥を剥がすかのような、そんな嫌な感じがいつまでもへばりついている。


 何が悪い? 誰が悪い? どうして、どうして──。

 人様を傷つけない、恥じない生き方をしていたはずなのに。

 娘にも散々言い続けてきた。人を傷つけちゃダメですと、困っている人がいたら迷わず手を差し伸べなさいと。


 だが今はどうだ。自分は今多くの人を傷つけている。

 それでいてちっとも心は晴れやしない。

 どんどん苦しくなっていくだけだ。深い、底なし沼の中でもがくように。


 ──君は悪くない。かといって、犯人の子も悪くはない。


 それじゃあ誰が悪いのか。


 ──それは世界だ。そうなってしまった世界が悪い。


 それじゃあどうしようも無いじゃないか。


 ──だから変えるんだ。ボク達の手で、この世界を終わらせるんだ。


 終わらせた先に──何がある? 娘には──杏奈には会えるのか?

 妻とまた三人で仲良く暮らせるのか?

 無理だ、無理に決まっているそんなこと。死者は生き返れない──それが世界の理だ。


 ああ、そう考えたら何もかも面倒くさくなったな。

 このまま全てを壊していっそ、自殺でもしようか。

 その方がずっと良い。あの世なんてものがあるかは知らないが、もう一度杏奈に会えるのならば、その方が良い。


 何よりもこの世界はクソだ。

 生きてるだけで苦しくなるだけだ。

 このまま、この深い底なし沼に嵌って、何も考えたくない。


「ふざけるな!!」


 その時、頭上から声がかかった。

 くぐもった声、沼の中にいるから当たり前だ。

 大抵の言葉じゃ、この沼では聞くことすらも出来ない。


 だからといって──まさか、自分も中に入り込むとは驚いたが。


「生きるということは! 何よりも変え難いものだ! 劇的で神秘的だものだ!」


 それは違う。生きるということは呪いだ。苦しいものだ。


「だがずっとではない。生まれてきたからには、幸せになる義務がある! 権利がある! 人は幸せになるために生まれてきたはずだ!」


 私は、あの子がいない人生は嫌だ。

 幸せだと? 私にとっての幸せは彼女のいる世界でしか実現し得ないんだよ。

 だからもう無意味なんだ。


「なら、残された人たちはどうする? アンタにだっているだろう、そんな人が!」


 そこで私は妻のことを思い出した。

 思えば、久しく会っていない。

 何も言わずに出ていってしまって、一度も連絡を取っていない。

 もしも彼女が私の訃報を聞いたらどうなるか──その顛末は簡単に予想できた。


 できてしまったからこそ、私の中に『生きねば』と思う心が生まれてしまった。

 それに自覚してしまってはもうダメだった。

 生きたい。生きたいと、叫んだ。


 あの子はもういないのに。


 もうあの笑顔は見れないと分かっているのに。


 この先苦しいことが待ち受けていると理解しているのに。


 それでも私は──生けねばならない。せめて、あの子の分まで。

 あの子がこの世界にいたと、それが証明できるのは今を生きる私たちだけだと。


「手を取れ!」


 灰色の髪をした少年が手を差し伸べる。

 私はその手を取りながら、ああと、確信に近いことを思った。



 ──あの子も、きっとこうやって誰かに手を差し伸べたのだと。





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