ドーナツをりんごにする方法

ドーナツをりんごにする方法

 トポロジーという考え方を知っているだろうか。数学の位相幾何学という分野の考え方の一つで、まあ簡単に言うとドーナツとマグカップを等しく捉えるようなものだ。意味がわからないよな。俺も意味がわからない。ただトポロジーでは、「穴の数」が重要になるらしい。穴の数がどちらもひとつだから、ドーナツもマグカップも等しい。要は物質を粘土のように考えるそうだ。粘土のように形が不定であれば、穴の数が等しい物質同士はこねくり回すと同じ形になる。だからハサミと伊達メガネは等しいし、つまり人間と石ころも大差ないというわけだ。

 しかしいまの俺はちがう。隣に手のひら大の石ころが転がっているが、いまの俺はこいつと等しくない。なぜなら腹に穴が空いているからだ。ついさっき拳銃で撃たれ、弾は貫通したようなので晴れてドーナツの仲間入りということになる。

 目の前には俺に向かって拳銃を向ける女がいる。トリガーガードの部分を穴と見なすとしたら、彼女の殺意が凝縮したような凶器もドーナツと等しいことになる。ドーナツなら歓迎だが、銃口を口に入れられたら最悪の気分だろう。

「いい加減に吐いてください」

 そう言った彼女は冷静に微笑んでいる。穏やかだが、まったく隙がない。ずいぶん立派に成長したものだ。褒めてやりたいが呼吸がつらい。そして彼女はひとつミスを犯している。どうやら組織の機密リストを売った犯人が俺だと思っているようだが、俺にはまったく心当たりがないのだ。

「俺じゃない」

 何度目かわからない台詞を絶え絶え繰り返す。優秀な彼女は致命傷を避けて弾を撃っていたから、即死はない。しかしこのままでは確実に死ぬ。なんとか壁にもたれて息を整える。

「でも逃してはくれないよなあ」

 彼女は微笑みを深くする。こうなった以上、俺には情報を吐いて死ぬか、ただ死ぬかの二択しかないのだ。俺がこれまでにやってきたように、彼女も自分の仕事をこなしている。

 何秒も視線だけのやり取りが続く。俺が逃げ道を思い浮かべるたび、かすかな仕草で止められた。負傷した俺が敵う相手ではない。悟っていた諦めに、頭が追いついてくる。

 風が吹き、砂がかすかに舞い上がった。背後には廃工場、目の前にはだだっ広い更地。これほど死体遺棄に適切な場所を組織が所有しているなんて、この世はなにかを間違えている。

「なあ」俺は朦朧としてきた頭で、助けを乞う代わりにさっきから考えていたことを訊いてみることにした。「俺は人体に貫通した穴なんてないと思っていたんだが、よく考えると消化管は穴に含まれるんじゃないか?」

 どう思う? と顎を上げてみると、相手は瞬きののち、微笑みのまま説明を求めた。

「どういう意味ですか?」

「トポロジーって考え方があるんだ。それによると、穴の数が同じ物質は等しく考えるらしい。つまりいまの俺がドーナツと等しいか、等しくないかって問題だ」

 数秒の沈黙が降りる。

「リラ」呼んだ名の響きがひどく懐かしくて驚いた。「俺を信用していないのか?」

 彼女は俺を見つめ、ほんの一瞬だけ唇の端を緩ませた、気がした。

「信用していますよ」そしてもとの表情へ戻る。「私にとってトポロジーが本当かどうかや、ドーナツと等しいかどうかなんてどうでもいい。あなたが犯人かどうかもどうでもいい。ただ、あなたなら仮にこのまま死んだとしても、きっと死なないだろうと信頼しています」

 変わらず銃口は俺の頭を向いている。もう笑うことも苦しいが、苦笑を取り繕う。

「それじゃあ信仰だ」

 まだ彼女の背が俺の半分くらいだったころ。両手でナイフを握りながら無表情に震えていた姿を思い出す。気まぐれで拾った孤児は、鍛えてみたところなかなか腕がよかった。組織に引き抜かれてからは噂をひとづてに耳にする程度だったが、どうやら立派に育ったらしい。

「あなたは生きる伝説です」

 彼女は不意にそう言った。界隈でのちんけな評価だ。買い被り過ぎだと言ってやりたくなる。

「その伝説の命を、いまやお前は、握ってるわけだ」

「不意打ちでなければこうはいきませんでした」

「いいや、お前は強い。俺はもう、死ぬ」

 喋ると唇が震えるようになってきた。明らかに血が足りていない。身体が酸素を取り込もうと荒く息を吸うのに、呼吸まで震える。あまりみっともない姿は見せたくなかったが仕方ない。もう自力では動けなかった。

「死ぬんですか」

 はじめて動揺が窺えた気がした。それとも耳まで狂っただろうか。俺を殺そうとしている彼女の声色が、かすかに変わった。

 見上げるが、視界がかすむ。表情は変わっていないように見える。

「死ぬ」

 短く吐き捨てる。そしてしばらく会話が止んだ。目を閉じ、このまま彼女に看取られるのかと思うと、彼女を鍛えていたころの記憶が蘇ってくるから不思議だった。

 ついに死ぬのだと感慨深くなっているところに、脈絡もなく彼女は言った。

「私を信頼してください」

 どういう意味だ。訊く気力もない。もっと死にかけている人間にやさしくなれと言いたくなったが、死にかけている人間がいれば追い討ちをかけるような職業にお互い就いていることを思い出した。そして彼女をこの道に引き込んだのはまさしく俺だ。

 とはいえ、質問の意図を訊いてもさして答えは変わらなかっただろう。

「信頼、してる」

 本当だった。彼女の強さも人格も、ずっと信頼している。

 彼女が身動きを取る音がする。「見てください」無茶を言われ、瞼を上げると視界が赤かった。

「わかりますか? りんごです」

 匂いでわかった。それがどうした。瀕死の人間に向かって、「一日一個のりんごは医者を遠ざける」ってか?

 死にかけると頭が饒舌になるらしい。俺はかつてないほど独り言が上手くなっていた。

「これは運命のりんごです。いまから私とあなたの運命を繋ぎます。そうすれば、あなたは助かるかもしれません。ちいさいころ、昔話を聞かせてくれましたよね。毒りんごを食べて死んだお姫さまを、同じ毒りんごを食べることで寿命を分け与えようとした王子さまの話。あなたは話の途中で寝てしまったから、私はずっと結末が気になっていたんですよ」

 そんな物騒なおとぎ話は身に覚えがなかった。いやあったのかもしれない。自分が酒でも飲みながらホラを吹いていたところを想像すると、まったくあり得る話だった。

「りんごは運命を繋ぐ果実なんですよね。愛の象徴としても知られているし。ほら、一緒に食べましょう。これで私とあなたは運命共同体です」

 冷えた感触が唇に押しつけられ、俺は身じろぎをする。彼女がどこまで話を本気にしているのか、まさかりんごに毒まで盛っているのどうかはわからない。けれどもしこれが毒入りなら、やめさせなければ。

 しばらくの攻防ののち、俺は粘り勝ちした。口を開けず荒くなっていた俺の呼吸が響く中、「どうしてですか」彼女はちいさくつぶやいた。

「なんで死ぬんですか」

 笑ってしまいそうだった。しかしその声があまりにか細かったから、俺は考えた末、震える腕を素早く伸ばし、りんごを奪って噛みついた。

「これから死んで、蘇ってやるから、十年後に、またここに来い」

 口内の果実を吐き捨てる。硬いりんごを噛み砕くのは、予想以上に骨が折れた。何度かそれを繰り返し、残った芯を手元に感じる。その太さをたしかめ、息を深く吐いて、止める。

 そして自分の腹に勢いよく突き刺した。

 ちいさく息を呑む音が聞こえる。そう認識するかしないかのうちに、手首を強力な力で掴まれた。俺でなければ折れていただろう。しかしこちらが一歩はやかった。芯は綺麗に撃たれた穴に捩じ込まれ、一切の隙間を埋めていた。

 数秒待って、手首の手が離される。そしてまた音が止む。腹の痛みがじくじくと十回くらい続いたとき、彼女が立ち上がる気配がした。

「約束ですね?」

 自分より高い位置から聞こえる声に、俺は不思議と笑いそうになる。代わりに浅く息を吐く。最後の言葉だ。

「俺は、お前の中で、君臨してるんだろ」

 音はしない。しかし了解したような間を置いて、足音が遠ざかった。

 そうして彼女は去っていった。

 俺は死にながら、彼女が戻ってきたときにりんごの樹が実っていることを祈った。物騒な生き方をしている俺たちだから、二人が並んで死ぬのはあまり絵にならないだろう。片方の死体を養分に果実が育ち、それをもう片方が食べるくらいが、グロテスクさとロマンのバランスが取れてちょうどいいんじゃないか。

 我ながら滅茶苦茶なおとぎ話の結末を夢想した。

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ドーナツをりんごにする方法 @Wasurenagusa_iro

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