Hide-and-seek

 家について布団に倒れこむ。ここのところ俺は酷く気分が沈んでいた。何も手につかないし、なんの考えも浮かんでこない。言うなればこれはまさしく虚無で、もっとチープに言うならこれが病んでいるということなのかもしれない。我ながら女々しいやつだ、と痛感している。

「あ、そういや」

 明日までの課題があったような気がして、スマホのカレンダーを開く。終わってなかったらどうしよう、なんて冷や汗が頬を伝うが、杞憂だった。昨日の夜の23時45分に提出してあって、その証拠に教授宛てのメールも履歴に残っていた。なんで俺はこんなにも課題に追われなければいけないのだろうか、もっと手際よく効率的に物事をこなすことができればいいのに、なんて思って深いため息を付いてしまう。

 大学も人間関係も、追い立てられるような課題もレポートもあの突き刺さるような視線もプレッシャーも。全部放り投げてしまいたくなる。こんな時に脳裏をよぎるのは幼い頃に友達と遊んだあの公園。あの頃に帰りたい、馬鹿みたいに笑って遊んで、世界が全部キラキラと輝いて見えたあの頃に。

 枕元に投げ捨てたスマホが鳴る。正直なところ出たくない、誰の声も聴きたくない。でも、チラリとみた画面に表示される名前が、脳裏をよぎった記憶とオーバーラップする。

「……もしもし」

『よっ、飯行かね』

「久しぶりの電話の、開口一番がそれかよ」

 電話の相手は幼馴染の澤広凌介、21歳。短大を出た後に地元企業に就職、営業職で街を駆けずり回る社会人1年目。

『どーせなんも食ってないんだろ?』

 そういった幼馴染の声の後ろで車のエンジンがかかる音がする。

「……ラーメン」

『んぁ?』

「隣町のラーメンにしねぇか。替え玉タダのとこ」

 数秒の間が空いて、画面の向こうでひとしきり笑う声が上がる。「いいなそれ。じゃあ15分ぐらいで家まで行くから」と通話は切れた。

 部屋の窓からは暮れ始めた藍色の空が見えている。

「……」

 懐かしい声だった。こうして飯に行くのも久しぶりな気がする。就職して忙しくしているらしい、ということを友達から聞いてはいた。そんなことを頭の片隅で考えながら、布団から滑り落ちるようにして出て、部屋の灯をつける。冷ややかなLEDの灯の下、散らかった部屋を目の当たりにして、また気が滅入る。

 普段大学にもっていく鞄の中ら財布を引っ張り出し、スマホと一緒にポケットに突っ込んで部屋を後にする。一人暮らしは、こういった時に自由が利くのが利点だとつくづく思った。

 玄関から出ると、すっかり涼しくなった秋めく風に乗って、どこかの庭先からか金木犀の匂いが香ってくる。その香りに刺激されたのか腹の虫が疼きだす。凌介が到着するまでの間の手持無沙汰な時間に、ついつい見なくても良いTwitterを開いてしまう。ほとんど動きのないタイムラインとよくわからないトレンド。なんの感情も湧きあがらないまま、時だけが過ぎていく。

 そうこうしている間に家の前に紺色のラパンSSが止まった。運転席に乗った凌介が手招きして、助手席を指さしている。スマホを上着のポケットに押し込んで、助手席のドアを開けると、車の中では凌介の好きなバンドの曲が流れていた。

「遅せーよ」

 ってドアを閉めつつ開口一番で文句を言うと

「時間ぴったりだっつーの」

 なんて笑ってた。

 住宅街を走り出した車内は前に乗せてもらった時より、なんだか凌介っぽさが出てきた気がする。買ったばかりの時の車の中は、緊張して運転するドライバーのせいもあってか居住まいが悪かった。あの時に比べて、今は運転手も慣れた様子でハンドルを握るこの車内は、前よりはマシになった気がする。

「髪、切ったんだな」

 白いワイシャツとスーツに身を包み、ジャケットは後ろの席に放り込まれていた。髪もさっぱり短くなっており、さわやかという言葉が似合いそうな格好だ。

「営業職に清潔感は大事だからな。そういう結希はイメチェンか?」

「別に、切りに行くのダルいだけだよ」

 そこから少しの間、沈黙が二人の間に流れる。3分半ぐらいの曲が終わったあたりで、

「そういやさ……」

 と言って凌介の会社での話が始まった。会社での先輩の話、ミスした話、褒められた話、最近頑張ってる企画の話……生き生きと話すその横顔が眩しかった。凌介が光なら俺は影、なんて中二病みたいなセリフも湧くほどに、俺は参ってしまっているのかもしれない。でも、その話がどれも面白くてついつい笑ってしまう。

「なぁ、結希。また一緒に遊ぼうぜ」

 俺も仕事に慣れてきたし、時間も作れるようになってきたし、と凌介は言った。

「オイオイ……俺たちもう大人だぜ?何をそんな悠長な……」

 そういって俺の視線がルームミラー越しに凌介とかち合う。外套の灯を受けた瞳の光はどこか鋭ささえ感じてしまう。

「バカで結構。大人が何だってんだ、遊んで、ゲラゲラ笑って、そうやって案外楽しく生きたって、誰にも怒られやしないぜ?」

 凌介の横顔は楽しそうに微笑んでいる。

「お前は良いよな……悩んでなさそうで」

「そういう結希は悩んでるんだな」

 返す言葉もない。でも正確に言うなら、

「悩んでるのかどうかすら分かんねぇよ……」

 そういって窓の外に視線を泳がす。流れゆく街はすっかり夜の帳が降りていて、繁華街が賑わいだしているのかもしれない。

「……ちょっと、付き合えよ」

「ラーメンは?」

「大丈夫、あそこ結構遅くまで開いてる」

 ふーん……なんて言って、俺は反対するでもなく「間に合わなかったらゆるさねー……」とこぼすように呟いた。とりあえず国道をぐるぐる走るか、なんて言って凌介はハンドルを切った。

「凌介は、どうして今の会社に決めたんだ?」

 少し走ったあたりで、素朴な疑問が零れた。俺は今、大学3年生。秋にもなれば就活の二文字がちらついている。

「……運よく拾ってもらえただけじゃね?一応、希望は営業職で、でもいまいちいい会社なくて。で何だかんだ見に行ったこの会社、なんかいいなって思って」

「それだけ?」

 うん、と言って凌介は頷いた。もっと、やりがいがあってとか、自分のスキルを活かしてとか、そんな答えが返ってくると思ってたのだが。

「テキトーって思っただろ」

 正直なところそうである。

「意外とテキトーなところはテキトーでいいんだよ。なるようにしかならないから、出来るとこまでやって頑張ったら後はもうお任せ」

「まーたいつもの、ケセラセラかよ……」

 そう、ケセラセラ。 「物事は勝手にうまい具合に進むもの」「だからあれこれと気を揉んでも仕方がない」「成り行きに任せてしまうのがよい」という意味合いの、凌介の好きな言葉。昔から、どこで知ったのか知らないがよく話している。

「お前は真面目だな、相変わらず。この話するとちょっと腑に落ちない顔するのも前からだよな」

「……しらねーよ」

 国道は町はずれをぐるりと回って、再び街中へと戻るルートに乗った。凌介の言う考え方もあっていいのだと思う反面、自分には縁遠い思考だということもわかっている。

「なぁ、お前さ、また最近頑張りすぎてないか?」

 なんかそんな顔してる。と、凌介は続けた。相変わらず人のことをよく見ているヤツだ。

 大学3年生の秋。4年になればノンストップで様々なことが決まっていくらしい。4年になってからじゃ遅い。そんな言葉を散々様々なところで聞いてきた。周りも動いているのに、俺だけ遊んでいるなんてことはできない。ただでさえ、今もギリギリなのに、と思っている。

「まぁ、頑張るのを止めはしないけど。それと、“息抜き”は別にセットじゃねぇだろ」

 そうかもしれないけど、でも、そんな言葉が胸の中で渦巻く。

「なぁ、やべぇならやべぇって言えよ」

「え」

「マジで、無理に言葉にしろとか、俺もできないから。だからヤバいってか、なんか無理かもなってぐらいでいいから『ヤバい』って言ってくれよ」

 真面目なトーンの凌介を見たことないわけじゃない。でも、こんなになんというか、大人になった凌介を見るのはなんか不思議な感じだ。

「凌介」

「ん?」

「悪ぃ、俺、ヤベぇかも……?」

 と、こぼすように言うと、文字通り堰を切ったように涙があふれだして止まらない。本当にヤバいかどうかなんて知らない、正直なところ認めたくなかっただけなのかもしれない。

「……よし、んじゃ飯いくか。そん時にいくらでも話聞いてやるよ」

 こんなにボロボロと涙を流すのはいつぶりだろう。ラーメン屋に着くまでの少しの間、俺は子供の頃に戻ったように泣きじゃくっていた。

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Tag & Hide-and-seek 月輪雫 @tukinowaguma

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