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 部屋の灯もつけないでベッドに倒れこむ。Twitterのフォロワー20人の昔作ったアカウントに『#助けて』なんて書いて消す。小さい頃は良かったんだ、こんなに悩みながら生きてこなくても良かったんだもの。

「結香ー?ご飯はー?」

 下の階からお母さんの呼ぶ声がする。「今日はいいー」なんて生返事を返して、私は布団に包まった。何も考えたくない。大学も人間関係も、今日もらった課題もあの突き刺さるような視線もプレッシャーも。こんな時に脳裏をよぎるのは幼い頃に友達と遊んだあの公園。あの頃に帰りたい、馬鹿みたいに笑って遊んで、世界が全部キラキラと輝いて見えたあの頃に。

 枕元に投げ捨てたスマホが鳴る。誰にも出たくない、誰の声も聴きたくない。でも、チラリとみた画面に表示される名前が、脳裏をよぎった記憶とオーバーラップする。

「……もしもし」

『よっ、何してた』

「別に何も。凌介こそ何やってたの」

 電話の相手は幼馴染の澤広凌介、21歳。短大を出た後に地元企業に就職、営業職で街を駆けずり回る社会人1年目。

『今仕事終わったんだけど、晩飯行かね?』

 どーせなんも食ってないだろ。そういった幼馴染の声の後ろで車のエンジンがかかる音がする。

「ラーメン」

『んぁ?』

「隣町のラーメン行きたい。替え玉タダのとこ」

 画面の向こうでひとしきり笑う声がして「いいなそれ。じゃあ15分ぐらいで家まで行くから」と通話は切れた。

 部屋の窓からは暮れ始めた藍色の空が見えている。

「凌介……」

 懐かしい声だった。こうして一緒にご飯に行くのも久しぶりな気がする。就職して忙しくしているらしい、ということを母親から聞いてはいた。頭の片隅で考えながら、布団から這いずり出て部屋の灯をつける。光に目が慣れて飛び込んできたのは、部屋のドアの傍に置かれた姿見に映った自分。その姿が目に入ったとき、正直ギョッとした。疲れ切ったその顔が、自分の知っている自分の顔じゃないように見えた。

 とりあえず、布団にもぐりこんでぼさぼさになってしまった髪をまとめなおす。普段、大学に持っていく鞄の中ら財布を引っ張り出し、スマホと一緒に持って部屋を後にした。階段を降りたところで母親とばったり会い、凌介と晩御飯に行くことを伝えると「遅くならないようにね」と言って微笑んでいた。

 玄関から出ると、すっかり涼しくなった秋めく風に乗って、どこかの庭先からか金木犀の匂いが香ってきた。その香りに刺激されたのか、食べ物の香りでもないのに腹の虫が疼きだす。凌介が到着するまでの間の手持無沙汰な時間に、ついつい見なくても良いTwitterを開いてしまう。ほとんど動きのないタイムラインとよくわからないトレンド。世界はこれで、私を置き去りにして平和だと多くの人がのたまうらしい。

 そうこうしている間に家の前に紺色のラパンSSが止まる。運転席に乗った凌介が手招きして、助手席を指さしている。スマホを上着のポケットに押し込んで、助手席のドアを開ける。車の中では凌介の好きなバンドの曲が流れていた。

「遅い」

 ってドアを閉めつつ開口一番で文句を言っても

「時間ぴったりだっつーの」

 なんて笑ってくれる。

 住宅街を走り出した車内は前に乗せてもらった時より、なんだか凌介っぽさが出てきた気がする。わざわざ変えたらしいBluetoothでスマホと繋がるナビ、それもあるのに好きなバンドのCDも置いてあって、近所の神社の交通安全の御守りがフロントガラスの内側で揺れている。買ったばかりの時の車の中は、緊張して運転するドライバーのせいもあってか居住まいが悪かった。あの時に比べて、今は運転手も慣れた様子でハンドルを握るこの車内は、何だか悪くない気がする。

「髪切ったんだ」

 白いワイシャツとスーツに身を包み、ジャケットは後ろの席に放り込まれていた。髪もさっぱり短くなっており、さわやかという言葉が似合いそうな格好だ。

「営業職に清潔感は大事だからな。せっかくだから切ってみたんだ。そういう結香はだいぶ伸びたな、なんだよイメチェンか?」

「別に。切りに行くの面倒なだけだよ」

 そこから少しの間、沈黙が二人の間に流れる。3分半ぐらいの曲が終わったあたりで、

「そういやさ……」

 と言って凌介の会社での話が始まった。会社での先輩の話、ミスした話、褒められた話、最近頑張ってる企画の話……生き生きと話すその横顔が眩しかった。今の私とは違う、凌介も眩しい側のキラキラ側の世界の人で、私は違う。でも、その話がどれも面白くてついつい笑ってしまう。

「なぁ、結香。また一緒に遊ぼうぜ」

 俺も仕事に慣れてきたし、時間も作れるようになってきたし、と凌介は言った。

「凌介も相変わらず馬鹿だねぇ。私たちもう大人だよ?そんな悠長な……」

 そういって私の視線がルームミラー越しに凌介とかち合う。外套の灯を受けた瞳の光はどこか鋭ささえ感じてしまう。

「バカで結構。大人が何だってんだ、遊んで、ゲラゲラ笑って、そうやって案外楽しく生きたって、誰にも怒られやしないぜ?」

 凌介の横顔は楽しそうに微笑んでいる。

「凌介は良いよね……悩んでなさそうで」

「そういう結香は悩んでるんだな」

 返す言葉もない。でも正確に言うなら、

「悩んでるのかどうかもわかんなくなっちゃった」

 そういって窓の外に視線を泳がす。流れゆく街はすっかり夜の帳が降りていて、繁華街が賑わいだしているのかもしれない。

「……ちょっと、ドライブするか」

「ラーメンは?」

「大丈夫、あそこ結構遅くまで開いてる」

 ふーん……なんて言って、私は反対するでもなく「どこ走るの」とこぼすように呟いた。とりあえず国道をぐるぐる走るか、なんて言って凌介はハンドルを切った。

「凌介は、どうして今の会社に入ろうって決めたの?」

 少し走ったあたりで、素朴な疑問が零れた。私は今、大学3年生。秋にもなれば就活の二文字がちらつきだしている。

「……運よく拾ってもらえただけだよ。一応、希望は営業職で探してたけど、いまいちいい会社なくて。でも何だかんだ見に行ったこの会社、なんかいいなって思って」

「それだけ?」

 うん、と言って凌介は頷いた。もっと、やりがいがあってとか、自分のスキルを活かしてとか、そんな答えが返ってくると思ってたのだが。

「テキトーって思っただろ」

 正直なところそうである。

「意外とテキトーなところはテキトーでいいんだよ。なるようにしかならないから、出来るとこまでやって頑張ったら後はもうお任せ」

「なんだっけ、ケセラセラ……?」

 そう、ケセラセラ。 「物事は勝手にうまい具合に進むもの」「だからあれこれと気を揉んでも仕方がない」「成り行きに任せてしまうのがよい」という意味合いの、凌介の好きな言葉。昔から、どこで知ったのか知らないがよく話している。

「結香は真面目だな、相変わらず。この話するとちょっと腑に落ちない顔するのも前からだよな」

「……そう、かもね」

 国道は町はずれをぐるりと回って、再び街中へと戻るルートに乗った。凌介の言う考え方もあっていいのだと思う反面、自分には縁遠い思考だということもわかっている。

「なぁ、結香。お前さ、また最近頑張りすぎてないか?」

 なんかそんな顔してる。と、凌介は続けた。相変わらず人のことをよく見ているヤツだ。

「そんなことないよ。就活だって始めてる子は始めてるし、卒論だって、院試だってあるし……」

 大学3年生の秋。4年になればノンストップで様々なことが決まっていくらしい。4年になってからじゃ遅い。そんな言葉を散々様々なところで聞いてきた。周りも動いているのに、私だけ遊んでいるなんてことはできない。そう思っている。

「まぁ、頑張るのを止めはしないけど。それと、“遊んじゃいけない”は別にセットじゃねぇだろ」

 そうかもしれないけど、でも、そんな言葉が私の胸の中で渦巻く。

「なぁ、俺じゃ頼りないか」

「え」

「幼馴染の昔一緒にバカやってた俺じゃ、今の結香の悩みを背負うのは力不足か?」

 真面目なトーンの凌介を見たことないわけじゃない。でも、こんなになんというか、大人になった凌介を見るのはなんか不思議な感じだ。仕事帰りのせいもあってか、ワイシャツ姿も板について、私の知っている凌介と知らない凌介がいるみたいだった。

「凌介」

「ん?」

「助けて、っていったら、笑う?」

 凌介の左手がハンドルから離れて伸びてくる。

「笑わねぇよ。てか、なんでもっと早く言わねぇかな」

 そういって大きな手が私の頭を優しく撫でる。と、堰を切ったように涙があふれだして止まらない。こんなにボロボロと涙を流すのはいつぶりだろう。私は泣き疲れて眠るまでの少しの間、子供の頃に戻ったように泣きじゃくっていた。

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