春を招く希望の花

小野寺かける

春を招く希望の花

 トルデリーゼの朝は早い。

 小鳥のさえずりに目を覚まし、桶に張っておいた冷たい水で顔を洗う。散らかり気味の茶色く長いざんばら髪は、水で適当に撫でつけた。

 着替えを済ませて編み上げのブーツを履いたら、隣の兄の部屋を確認する。が、ベッドはもぬけの殻だった。兄はトルデリーゼ以上に早起きで、いつも夜が明けきらぬうちから家を出て行ってしまう。

 焼いた玉子とパンを口に放り込み、羊乳で胃に流し込むという大雑把な朝食を済ませたら、まだ眠っている両親を起こさぬよう、そっと家を出る。向かう先は、村々を見下ろす〝幻獣さま〟の山だ。歩きながらそこを見上げると、頂上付近にはうっすらと雲がかかっていた。

 朝特有の清々しく、ちりりと冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。季節や天候ごとに味わいが変わるのは好きだ。今日の味には、昨晩まで降っていた雨の湿っぽさが混じっていた。

 弾むような足取りで歩を進める。長い年月をかけて踏みならされた道の脇では、ランタンに似た小さな白いスノードロップがささやかに揺れていた。

 眼下の自宅が指先ほどの大きさになるまで山道を登った頃、トルデリーゼの目的地が見えてくる。木造の質素な小屋――工房である。今にも周りの風景に溶けて消えてしまいそうなほど地味で目立たないそこと自宅の往復を、かれこれ五年ほど続けている。

 兄がいるはずだ、と飾り気のない扉を引いてみるが、開かない。どうやらすでに自分の仕事場に向かったらしい。拍子抜けしたものの、トルデリーゼは気を取り直してワンピースのポケットから鍵を取り出し、扉に差し込んだ。

「ううん……」

 不意に、どこからか呻き声が聞こえた。鍵を回そうとしていた手がぴたりと止まる。

 耳を澄ませると、もう一度聞こえた。かなり近くからだ。無意識に背筋が震える。

 獣が出たときは気をつけるんだよ、と両親から何度も言い聞かされているが、これまで遭遇したのはせいぜいウサギやネズミだけで、クマなどは見かけたことも無い。だから安心しきっていたが、まさかついに出ただろうか。

 ごくりとつばを飲みこみ、せめてもの護身用として、足元に転がっていた太い木の枝を拾い上げた。

「うう……寒い……」

 ――人?

 クマではなかったと安心すると同時に、別の警戒心がふつふつと生まれる。

 自分や兄以外にも工房を使う者はいるが、彼らが来るのは太陽が完全に姿を現した頃だ。これまでにトルデリーゼや兄よりも早くここに来た者はいない。いや、今日はたまたま例外だという可能性もあるが、用心は怠らない方がいい。

 声は裏手から聞こえていた。近づくにつれ、衣擦れの音もしてきた。

 ――まさか!

 トルデリーゼは秋ごろに起こった事件を思い出した。山を隔てて接する隣国の村人が、夜間に工房に侵入し、中をめちゃくちゃに荒らしたのだ。

 物を盗まれたりはしなかったが、保管してあった未完成の作品がいくつも犠牲になるという小さくない被害を受け、心が折れかけたのだ。同じことがあってはたまらない。

 意を決し、トルデリーゼは勢いよく飛び出した。

「そこにいるのは誰!」

 言いながら枝の切っ先を振り下ろす。その先にいたのは、

「ああ、助かった……!」

 うず高く積まれた薪の下でしゃがみこむ、旅装姿の若い男だった。


「いやあ、道に迷って一晩明かして、食べ物は無いかと歩き回っている時に建物を見つけてね。誰かいたらな、と思って辿り着いたはいいんだけど、そこで力尽きてしまって」

 ぱちぱちと暖炉で炎がはじける。男はそれに手をかざしつつ、金糸に似た前髪の下で菫色の瞳を細めて自嘲気味に笑った。

 工房には食糧の備蓄がある。男が空腹を訴えたため、トルデリーゼはパンと温めた羊乳を差し出した。彼は目を輝かせ、何度もお礼を言いながらパンにかぶりついた。

「一晩明かしたって、山の中で?」トルデリーゼは男の隣に腰を下ろしつつ、呆れきった顔で羊乳に口を付ける。「雨も降ったのに? 馬鹿じゃないの?」

「はは、仰る通りだよ。凍え死ぬかと思った」

 それを言うなら君だって、と彼はトルデリーゼを咎めるように目を眇めた。

「ぼくのことを泥棒だと思ったんなら、ナイフか何かで立ち向かわなきゃ。あんな枝じゃあネズミだって追い払えないよ」

「し、仕方ないじゃない。驚いて、とっさに……」

「確かに驚かせたのはぼくだ。申し訳ない」

 謝罪して、男はふにゃりとした微笑みを浮かべた。

「ところでお嬢さん、名前は?」

「え?」

「助けてもらったお礼をするのに、名前を知らないと困るから」

「お礼だなんて、そんな別に」としばらく問答を続け、結局トルデリーゼは名乗った。

「ぼくはアルバンだ」す、と彼に手を差し伸べられ、おずおずと握る。傷一つなく、柔らかで温かな手だ。自分の荒れた手とは大違いで少し羨ましい。「よろしくね、トルデリーゼ」

 ふと引っかかりを感じ、トルデリーゼは小首をかしげた。彼の名前に、聞き覚えがある気がしたのだ。

 アルバン、アルバン……分からない。どこかで見た顔だろうかとも思ったが、こんな端正な顔立ちを忘れるはずがない。すっと高い鼻梁ときめ細やかな白い肌。中性的な顔立ちを縁どる金髪は月光を帯びているかのようにつやりと輝く。年は兄と同じ二十代前半くらいだろうか。

「それにしても、あなた一人でこの山に?」

 問いかけると、アルバンは「連れはいるけど」と困ったように腕を組む。

「山に入り込んだのが夜遅くでね。さあ、これからどうやって空腹を満たそうかという時に、ちょっと」

「ちょっと?」

「ウサギを見かけて、追いかけてる途中に振り向いたらいなくなってた」

 つまり、はぐれてしまったということか。呆れるあまり言葉もない。

 トルデリーゼの表情から何かしら察したのだろう。アルバンは話を逸らすように「そういえば」と何かを指差した。

「あそこに置いてあるのみとかは、君のもの?」

 彼の指はトルデリーゼの背後に向いている。ええ、と彼女はうなずいた。窓のそばの棚には、鑿の他に木槌や刀、砥石が何種類も並べられている。

「私、彫刻をしていて」

「へえ!」アルバンの顔に素直な驚きが浮かんだ。「君の作品を見てみたいな!」

「いいけれど、それよりもお連れさんを捜した方が良いんじゃない?」

「工房にあるのは製作途中だよね。完成品はどこに?」

「人の話聞いてた? ……山の中に、幻獣さまを讃える礼拝堂があるの。そこに一つ」

「よし! じゃあ、そこに行きがてら人探しをする。案内してくれるかい?」

 言いながら彼は立ち上がり、止める間もなく外に出て行ってしまった。

 安否よりも自分の好奇心を優先されてしまった彼の連れに、心の底から同情した。


 大昔、魔術師と呼ばれる者たちが闊歩していた時代。彼らは己の技術や権力、財力を競い合うように〝幻獣〟と呼ばれる人工生命体を作り出した。それは古くからの伝承で語り継がれてきた生物を模した、意思を持つ芸術品だ。

 しかし時代は流れ、やがて魔術師は廃れた。幻獣を作り出す材料として人間が使われていることが発覚し、それに対する反感が強まったためだった。

 負の遺産ともいうべき幻獣は、時に人々を脅かし、危害を加える事もあった。だが反対に、苦境にあえぐ民を不思議な力で救ったものもいた。前者は捕えられ処分される対象となったが、後者は後世まで語り継がれ讃えられる、神話の存在となっていった。

「私の村は昔、隣国が攻めてきた時に真っ先に侵略されたらしいの」

 工房を出て礼拝堂へ向かう道すがら、トルデリーゼはこの地に伝わる昔話を語っていた。

「だけどそれを幻獣さま――ラドンっていう、頭をいくつも持つ巨大なヘビみたいな姿なんだけど――が救ってくださった。最終的に弱点を突かれた幻獣さまは倒れてしまったけれど、その体は村々を囲んで守る山となり、痛手を負っていた敵兵は撤退していって、この地は守られた、という話があって」

「その話なら聞いたことあるよ」懐かしい、とアルバンは微笑んだ。「〝リンゴを守る大きな竜〟って題で、確か絵本にもなってるよね」

 この地には大昔、立派な実が成るリンゴの木があったそうだ。瑞々しく甘く、しかも黄金色に輝くリンゴは当時の魔術師を魅了し、リンゴの木を守るため、そして同じようなリンゴを育てる技術を後世に伝えるためにラドンは作られたとされている。

 戦火によってそのリンゴの木はラドンとともに無くなってしまったが、教えは今も脈々と受け継がれている。トルデリーゼが暮らす村の人々の多くはリンゴ農家だし、ラドンを神として崇め奉る家庭もあるのだ。

「で、君や君のお兄さん、その他多くの芸術家は、その伝説を辿れるような礼拝堂をこの山に残しているってわけか」

 トルデリーゼはうなずいた。

 山の頂上にラドンを祀る礼拝堂を建てよう、と言い出したのは兄の師匠の、そのまた師匠だったという。アルバンが言った通り、伝説は絵本になってはいるものの、知名度はそこまで高くない。ゆえにもっと多くの人々に知ってほしい、と考えたのだろう。彼は礼拝堂を建てるうえで必要な建築家や芸術家たちに協力を募り、志に賛同した多くの人々が集まった。

 彼は病に倒れ亡くなってしまったが、遺志を継いだ多くの者たちによって事業は続けられ、その活動を知った貴族たちからは資金の援助も出た。

 現在、頂上の礼拝堂は完成を目前に控えて仕上げの作業が行われ、他にもそこへ辿り着くまでの道のりに、伝説をふり返られるようにと物語の一場面を表した小さな礼拝堂も何棟か建設が進められていた。

 トルデリーゼの彫像は、そのうちの一つに置かれている。

「ここよ」

 汚れのない真っ白な壁が眩しい、小さな建物が二人を出迎えた。東西に細長い外観に飾りは無く、三角屋根が澄んだ空を差している。

 参拝者を迎え入れる扉にはラドンのレリーフがある。扉を開けて中に進めば、壁面の細長い窓から幾筋も光が差し込み、狭苦しい身廊とわずかなベンチを薄ぼんやりと照らし出していた。

 その奥の祭壇で、一体の彫像が二人を待ち受けていた。

「すごいな……」

 アルバンの口から感嘆の吐息が漏れる。彼はこつこつと靴音を響かせながら、ゆっくりと歩いて行った。

 背後から光を受けて静かに佇むのは、ラドンと共に敵兵に立ち向かったとされる勇敢な娘の像だ。

 天高く掲げた右手に剣を、民を守らんと広げた左手に盾をそれぞれ携え、宙を見つめる瞳には闘志の炎が宿る。風になびきひるがえる粗末なスカートは農民の出であることを表し、力強く引き結んだ唇は今にも開いて人々の心を奮わせそうだ。

「これを、君が?」

「ええ。顔かたちは私の想像だけれど」

「勇ましい中に少女らしい可憐さがあって素敵じゃないか。細部まで凝ってるし、良い意味で生々しくて美しいよ……」

「お褒めの言葉をありがとう」

 二人が現在いる礼拝堂は〝導きの娘の堂〟と呼ばれ、ここから頂上まで十ほど点在する礼拝堂群の、そして物語の起点となっている。

 ラドンの呼びかけに応えた娘は剣を取り、隣国軍が何をしようとしているか、いかに危険かを民たちに説いたという。奮起した人々は娘に従い果敢に立ち向かったが、訓練された兵には敵わず敗れてしまう。だが、心の折れかけた彼らを再び奮い立たそうと娘はたった一人で敵軍に飛び込み、まさにその姿は戦いの女神のようだったと伝わっている。

 娘の他にも、逸話の残る人々は多くいる。トルデリーゼを初めとする彫刻家や画家たちの役目は、彼らの生き様や功績を後世まで伝える事だ。

「他の礼拝堂に、君の彫像は?」

「置く予定ではいるけれど、まだ完成には程遠くて」

 せっかくだから他のところも見てみたいとアルバンに頼まれ、トルデリーゼは順に案内することにした。人探しはどうなったのかと思ったが、忘れているわけではないらしく、時おり人影を探すように山を見回して「フランツ」と名を呼んでいた。応答がないと分かれば、なぜか安心したように再び歩き出す。

「それにしても、君の腕は素晴らしいね」

 次の礼拝堂を目指している最中、アルバンが褒めてきた。トルデリーゼは一瞬だけ薄紅色の瞳を丸くし、唇に不器用な笑みを浮かべた。

「どうもありがとう」

「素っ気ないな。お世辞だと思ってる?」ほんの少しだけむっとしたように、アルバンは眉間に皺を寄せた。「ぼくは本気なんだよ」

 肌の滑らかさや魂が宿ったような瞳は、まるで本物の人間のようだった。芸術を知らない人さえも圧倒する魅力があるとアルバンは熱賛する。確かにお世辞ではないらしく、トルデリーゼの胸にむずむずとこそばゆさが広がっていく。

 褒められるのは、あまり慣れていないのだ。

「兄さまや師匠や、仲間たちからはあまりそういうの言われないの。兄さまたちに比べたら、私の腕はまだまだだから……」

「お兄さんも彫刻を?」

「いいえ」

 兄は画家だ。毎日朝早くから夜遅くまで頂上の礼拝堂にこもり、黙々と筆を握っている。今は天井画に取り掛かっているはずだ。首を痛めずに描くにはどうすればいいか、と師匠と議論していたような気もする。

「全ての礼拝堂が完成したら、きっとたくさんの人が詰めかけるだろうね」

「だといいけれど」朗らかなアルバンと違い、トルデリーゼの表情は晴れない。「建設当時から、隣国の村と小さな諍いがあるのよ。それが発展するのが不安だわ」

「ああ……この地域の人にとってラドンは救世主でも、被害を受けた向こうからしてみれば憎むべき存在だってことか」

 そう、とトルデリーゼは首肯した。

 隣国の民は時々「我らの先祖を炎の息で焼き殺した忌まわしい幻獣を崇め奉るなど許せない」と作業の妨害に訪れるのだ。秋にやってきた人々はその一部である。

 娘の像が置かれている礼拝堂は今のところ被害を受けていないが、他のところでは馬糞を投げつけられたり、作業中にずっと暴言を吐き続けられたりしていると聞く。最近は寒さのためかやってくることは滅多にないが、春になればまた嫌がらせが再開するかも知れない。そう考えると、少々憂鬱な気分になる。実際に心身を病み、去ってしまった仲間もいるのだ。

「せっかく礼拝堂に来てくださった方まで被害を受けたらって考えたら、ね……」

 それだけでなく、また作品を踏みにじられたら。考えるだけで恐ろしく、悔しい。

 今は一部地域同士の諍いで済んでいるが、些細なことをきっかけに国同士の大規模な争いに発展しかねない。だから迂闊にこちらからは手を出さないように、と兄たちは言う。

「『今は耐えろ』ってみんな言うの。でも『今』って、いつまで? 終わりの見えない『今』を耐え続けるなんて、私には難しいわ」

 トルデリーゼの表情が、意識せずどんよりと暗くなっていく。それを目にしたからか、アルバンは「安心して」と明るい声で続けた。

「杞憂に終わらせるよ」

「?」

 自信満々に笑いかけてくる彼につられ、トルデリーゼの口の端もぎこちなく上がる。そのおかげか、沈みかけていた気分が風に舞う羽のようにふわりと浮かび上がる気がした。

 しかし「終わらせる」とは。詳しく聞きたかったが、それより先に「ところでトルデリーゼ」とアルバンに尋ねられた。

「君、仕事の依頼とか受けてる?」

「え?」

「君に仕事を頼みたいんだ」アルバンは真っ直ぐにトルデリーゼを見下ろす。その瞳はどこか熱っぽく輝いていた。「ぼくは君の腕に惚れた。一目惚れだ」

「えっ……」

 あまりに急な告白に、トルデリーゼは喜ぶより先に困惑した。

 自分はまだ無名で、未熟者である。これまで依頼を受けたことはないが、単純にきたことがないのだ。だから経験も多くない。そう伝えると、アルバンは「誰だって初めはそうさ」と笑った。

「どんな職人でも芸術家でも、誰かに見込まれて大成への階段を上っていくんだ。君の場合、ぼくがその一段目になるということだよ」

「け、けれど、今の仕事が終わるまでは受けられないわよ?」

「待つさ。君が『良し』と言うまでね」

 彼の真剣な眼差しから、嘘の気配は感じない。どこまでも本気だ。

「『良し』と言うまでなんて……」くす、と淡い笑みがトルデリーゼの唇から漏れる。「なんだか犬みたいね」

「よく似てるって言われる」

 気を悪くした様子もなくアルバンは朗笑する。その傍らで、トルデリーゼは頬を朱色に染めていた。

 ――初めて会った人に、こんなに褒めてもらえるなんて。

 ――しかも腕まで認めてもらえるなんて。夢みたい。

 他の彫刻家たちから、自分の手掛けた作品がどこそこの教会にあるだとか、とある貴族に買い取られただとか、そういう話を聞くたびに純粋な羨ましさが生まれた。いつか自分の作品も、誰かに求められるようになる日が来ることを願っていた。

 その機会は、ある日突然、謎の若者からもたらされたのである。

 迷う時間は短かった。トルデリーゼは高鳴る胸の鼓動に引っ張られるように「いいわ」と力強くうなずいた。

「あなたの依頼、受けることにする」

「ほんとう? 嬉しいよ!」犬に例えた直後だからか、彼の尻あたりで見えない尻尾が揺れているような気がした。「断られるかもなあってちょっと思ってたからさ。ああ、良かった」

「断られるかもって……どうして」

「だってぼくたち、初対面だよ。騙そうとしているんじゃないかって疑われてもおかしくないだろ?」

 自覚はあったのか。

 確かに、彼の話が嘘だったならと考えないわけではない。しかし、アルバンからは悪意を感じられなかったのだ。素直にそう答えると、ふっと彼の肩から力が抜け、春を迎えた花が綻んだように嬉しそうに笑った。

 正式な依頼はまた後日、というアルバンを連れ、トルデリーゼは次の礼拝堂に歩を進める。その最中、ふと気になったことを聞いてみた。

「あなた、ひょっとして貴族の子息?」

「どうしてそう思うのか聞いてもいいかな」

「だって、例えば衣服の生地よ。これってベルベットじゃないの? 庶民にはとても手の出せない高級品じゃない」

 それに、とトルデリーゼはアルバンの胸元で揺れる刺繍に目を向けた。

 ずんぐりとした双頭の鳥が羽を広げ、その頭上に煌めく王冠を戴いている。足元では二本の剣が交差し、それら全てを囲い込むのは一対の月桂樹だ。

 貴族たちはみな、衣服に紋章を記すのが決まりとなっている。アルバンもそれに則っているのだろう。

 しかしトルデリーゼは紋章に明るくない。だが、どこかで見た覚えがあるのも確かだ。

 アルバンの名前と合わせて思い出そうとするが、全く出て来ない。

「見つけましたよ、アルバンさま!」

 どこからか悲鳴に近い声が上がる。トルデリーゼは足を止め、名前を呼ばれたアルバンは「あっ」と前方を指した。それを追うと、二人の行く手に二つの人影があった。

 そのうちの片方は、トルデリーゼがよく知る人物だった。

「兄さま!」

「おう、おはようトゥルーデ」

 愛称と共に片手をあげ、画家らしからぬ屈強な体つきの男――兄のダリウスが歩み寄ってくる。その隣には、肩をいからせた見知らぬ青年が並んでいた。先ほどアルバンを呼んだのはこちらの人物だろう。

 アルバンと揃いの旅装は、泥ですっかり汚れてしまっている。一晩中歩き回っていたのか、目元にはくっきりと隈が刻まれ、典麗な顔つきを台無しにしていた。

「彼がフランツ?」ひそひそと訊ねると、アルバンは「そう」と軽くうなずく。

「側近なんだ。いつもぼくを見つけるとすごい勢いで怒るから怖いんだよ」

 そう言いつつ、アルバンの口許には面白がるような笑みが浮かんでいる。

「無事で良かったよ、フランツ!」と腕を広げ、アルバンは彼を抱きしめようとする。それよりも早く、フランツと呼ばれた青年はきっとまなじりを吊り上げ、彼の腕を叩き落とした。

「まったく! 一人でさ迷って、その果てに女性をたぶらかすとは何事です!」

 怒声に空気が震え、近くの枝でぶら下がっていた枯葉が切なげに地面に落下した。あまりの剣幕に、後ろでくくった髪が逆立っているようにさえ見える。

 誑かされてはいません、とトルデリーゼが口を挟む隙も無く、二人は言い合いを始めてしまう。どうしたものかと成り行きを黙って見ていると、武骨な指に肩をつつかれた。

「なあトゥルーデ、あの金髪の男……」

「ああ、工房の裏に倒れていたのを見つけたの」一通り説明してから、トルデリーゼは兄をじとりと睨んだ。「兄さま、私より早く来たのに、彼に気がつかなかったの?」

「うん」と答えたダリウスの鼻の頭には絵の具が付着していた。先ほどまで礼拝堂にこもっていたのだろう。詳しく聞くと、作業を進めていた所にフランツが倒れ込んできたらしい。人を捜しているという彼に付き添い、兄は山を下っていたという。

 ある程度文句を吐き出して満足したのか、フランツはトルデリーゼに目を向け、「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」と腰を折った。

「アルバンさまを助けてくださったそうで」

「助けただなんて、大したことは……」

「お礼を致したいところですが……。申し訳ございません。私たちは今日の昼までに向かうべき場所があり……無礼をお許しください」

 畏まった態度のフランツに何度も「気にしないでください」とくり返すが、彼は心底申し訳なさそうなままだ。隣で立つアルバンはと言えば、「ねえ、ぼく頂上まで行ってみたいんだけど」とトルデリーゼに話しかけてくる。

「私の話を聞いていましたか! 本当なら昨日の晩に戻れているはずだったのを、あなたさまが一人でふらふらとなさるから……!」

「分かった、分かったよ。仕方ない」

 また説教が始まると感じたのか、アルバンはうんざりと手を振った。

「じゃあ、今度改めて正式に依頼を持ってくるよ。その時にまた案内してくれる?」

「ええ。お待ちしてるわ」

 トルデリーゼが答えると、アルバンはにっこりと歯を見せる。その直後、「行きますよ!」とフランツに首根っこを掴まれ、引きずられるように去っていった。

「……まさかなあ」

 遠ざかっていく二人の背中を送りつつ、ダリウスがぽつりとつぶやいた。

「どうかしたの?」

「いや、アルバンって名前なんだろ、さっきの」兄は滅多なことでは驚かない。なのに、珍しく目を丸くして呆然と続けた。「ってことは〝放浪王子〟だろ、あれ」

「……え?」

 ぱちん、と何かが脳内で弾けた。

 頂上の礼拝堂には、金銭面での支援をした証として紋章の金細工が掲げられている。数ある中で一際大きく、燦然と輝くのは王家の紋章だ。

 図柄は、アルバンの胸元に在った紋章と同じではなかっただろうか。

「――――あっ!」

 同時にトルデリーゼは、王太子についての噂を思い出した。

 優秀かつ温良な人柄で好かれているが、唯一の欠点は放浪癖だと聞いたことがある。

 目を離した隙に幻のように消え、遠く離れた地で目撃情報が上がる。それを手掛かりに探しに行けば、いつの間にか王都に戻っている、と。

「まさかそんなお方がこんな僻地に来るなんてな……どうした、トゥルーデ」

 しみじみと呟いたダリウスの隣で、トルデリーゼは顔を青くしていた。

「私、とんでもない方と、とんでもない約束をしてしまったんじゃ……」

「そういえば依頼が何とかって言ってたな。何だったんだ」

 事情を兄に話すと、ダリウスは驚愕にますます目を見開き、誉れじゃないかとトルデリーゼの背を力強く叩く。

 思い返せば不敬を働いた気もする。トルデリーゼは頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 ――ぼくは君の腕に惚れた。

 耳の奥で彼の声が蘇る。優しく甘く、熱い言葉は、トルデリーゼの心を羽毛のように優しく包み込んでいった。


「隣国へ行く、ですか?」

 フランツの問いに、王太子アルバンは麓から頂上を見上げつつ「近いうちにね」と答えた。

 幻獣にまつわる美しい礼拝堂のため、父王が以前に寄付を行ったと臣下に聞き、一目見てみたいと――まだ完成はしていませんよという一言も聞かず――制止を振り切って飛び出してきたのが二日前。

 頂上の礼拝堂を見る事は叶わなかったが、もっと美しいものを見つけた。

「神聖な信仰の場を乱されるのは困るし、彼女も言っていたけど、最悪は国同士の争いになりかねない。だったら、まだ小さな火種のうちに消しに行かないとね」

 次にここに戻ってくるのは、燻りを消し去った時だ。

「どのように話をつけるおつもりですか」

「向こうの王太子とは二回くらいしか話したことはないけど、その時に芸術を深く愛していると言っていたんだ。きっとここの礼拝堂群も気に入ると思うんだよ」

 要するに、隣国の王太子もこの地の完成を待ちわびているとなれば、妨害も入りにくくなるのではないかと考えたのだ。

「そう上手くいくでしょか」

「上手くいかせるんだよ」

 根拠のない自信だとフランツは感じているのだろう。やれやれと言いたげに肩をすくめられた。

「難航すれば『長い歴史の中でそっちだって幻獣をけしかけてきたことがあっただろう』って言ってやるさ」

 それに、と続けたアルバンの瞳が一層輝いた。

「不安材料を取り除けば彼女の仕事は捗って、ぼくのために彫像を作ってくれる日が早く来るしね」

「……まさか即位記念の彫像を依頼しようとしているのでは」

 父王は病床に臥すことが増えた。まだ公にはされていないが、体力の衰えもあって近々退位したい、と王妃や息子たちに漏らす日も少なくない。

 それが現実となれば、王太子であるアルバンは即位し国王となる。彼がトルデリーゼに頼もうとしているのは、フランツが予想した通りの彫像だった。

「あ、見てみろよフランツ。スノードロップが咲いてるぞ」

「見れば分かります」

 アルバンは道端にしゃがみ込み、花を一本、ぷつりと手折った。

 先ほど出会った将来有望な彫刻家の髪に飾ったら、さぞ映えることだろうと思いつつ。

「そういえば、ご存知ですか、アルバンさま」

 てっきりまた首根っこを掴まれるかと思って身構えていたが、アルバンの予想に反し、フランツは主人の隣に同じように腰を下ろした。

「スノードロップの花言葉は『希望』だそうです。幼い頃、姉に教わりました」

「へえ、いい言葉じゃないか。そうだ! 次にトルデリーゼに会う時、これを花束にして行こう。『未来は希望に満ちているぞ』ってね」

「でしたら、早急に隣国へ向かわれた方がよろしいのでは? のんびりしていると、花が枯れて時期が過ぎてしまいます」

「それはいけない! よし、まずは王都……いや、このまま隣国へ交渉しに」

「早急にとは申しましたが、せめて陛下にお考えを報告して、事前に訪問を知らせてからです!」

 隣国へ行こうと方向転換するのを予想していたのだろう。歩き始めるより早く、がっしりと羽交い絞めにされた。しばらくもたもたと不毛なやり取りをくり返したものの、最終的にアルバンは「分かったよ」と不満を漏らしつつ、素直に王都へ戻ることにした。

 父のことだ。隣国へ行くことも、トルデリーゼに彫刻を頼むことも、反対はしないだろう。優秀に育ったアルバンに甘いのだ。

「王宮に彼女の作品が並ぶ……ああ、その日がすでに待ち遠しいよ」

 アルバンはスノードロップを胸元のポケットに挿し、嬉々とした笑みを浮かべた。

 その笑顔が恋する者のそれであると、本人はついぞ気が付かなかった。

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春を招く希望の花 小野寺かける @kake_hika

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