裏切られたンゴ

第35話 □月□□日午前六時七分。

 陽光差し込む朝の景趣に空気を、埃っぽい部屋にて味わう。

「……よかった。脚、あるやんな。あー、よかった」

 ……いや、なに言ってんねん、僕。

 ……妙に生々しい夢を見た気がするもんだから。汚泥に溶ける小石を奥歯で喰む感覚みたいな、そんな言い表しようなない不快感だけを残して夢から現実へ醒めてしまったらしい。それを俗に『悪夢』なんていうのだろうが、本当に勘弁してほしいものだ。見せるならもっとハッピーで救われている夢を見たい。

「……どうせやったら、もっとムフフな夢を見たかったもんや」

 それにしても、悪夢が尾っぽを引いているのか、鉛製の錘でもまつ毛にぶら下げられているのかというほどに瞼が重い。

 身体も、億劫が水を吸っちまったような感覚だ。自由があるのに、その自由が効かない、とでも言えばいいのか。

 ……これじゃあ、まるで、、、

 ……まるで、何日間もの間、眠りこけていたみたいじゃないか。

「……って、あれ。そういえば、いつの間に寝支度を整えたんやろ?」

 飲んだくれの酔っ払いじゃあるまいし、こうも毎回「いつの間にッ!!」ってのは控えたいのだけれども。

 ……んん、朧げながらも微かな記憶を探ってはみるものの、やはり瞭然としそうにない。確か、夜、琵琶湖沿い、誰かと、何処かへ出かけていたような気がするのだが。……あぁ、そうだ、あれは散歩だ。夜十時過ぎぐらいに、琵琶湖沿いの遊歩道で、透明な岸部さんの誘いからアテもなくぶらぶらしたんだっけ。

「……あー、やばいな。めっちゃ寝惚けているぞ、僕」

 ……さっさと顔を洗って、朝食を済ませて、それから、、、

「……そうだ、そうだ。学校だ。……今日は、文化祭二日目だ」

 文化祭二日目、西大津高等学校主催の祭りごとも佳境を迎えることだろう。ただ、それがちっとばかし寂しさもあったりする。登校する前からこんなんだと後々に気が滅入っている自分が目に浮かぶようでヤになるが、今日はクラスメイトの慈悲もあって終日フリーだ。気になる屋台にだって目星をつけている。

「……二年三組、ホラーハウス。……三年四組は、御伽噺風の演劇だったかな」

 ……昨日の軽い下見では二年生が気合入っていたように思う。

 ……ところで、胸を膨らませるのは結構なのだがね、僕くん、さっさと身支度をしなければ折角の祭りの時間を無為にしてしまうのではないか。

 どうにも優れない体調の身体を引きずって根性でタンスに辿り着く。

 つくづく慣れとは怖い。スカートを履く手つきで既に女の子のそれだ。

 腰に巻く布切れに積年の信頼まで感じそうになっている。

 これじゃあ、もうお婿さんの貰い手がなくなっちゃうじゃあないか。

「……セーラー服に、……タイをちょちょいっと、……右か、左か、もうちょい……、、、」

 ……鏡が欲しい。できれば等身大の上から下まで見えるやつ。

 ギシギシと今にも踏み抜きそうな廊下を進み、洗面所へ向かう。

「……あはは。やっべー、ひっどい顔」

 若干ぬるいのはもはやご愛嬌な水道水で顔を漱ぐ。

 ポタポタと滴り落ちる水滴。

 姿見鏡に掛けてあったタオルで顔を拭うも、写り込む顔は冴えない目つきの真面目っ子だった。

「……そういえば、あれ、一昨日以来やっけ、まともにこの顔見たの」

 学校の手洗い場や久遠さんとのお出掛けの際に流し見するぐらいしか覚えがない。マジか。自分ので自分の顔、もとい岸辺さんの顔をちゃんと確認する機会ってのがほとんど無かったんじゃないのか。もうちょっとばかし気にかけてやるべきなのだろうか。……いや、なんか、うん。ヤメておこう。

 ……べ、別に、こんな幸薄ガールのご尊顔なんて見たって欠片も面白くねぇや、なんて、そんなこと思ってないんだからね!

 ……まったく、勘違いしないで欲しいものだ。

 ほら、よく見ると可愛いもんじゃないか。目が腐っている感じがもう。

 ……いや、よく見りゃクソ生意気そうだな。全然可愛くねぇけ、ぺッ。

「……あ、そういえば。……朝からやけに静かだなと思ったら」

 馬鹿の一つ覚えのように五月蝿い蝉の大合唱よりも、それはもう、耳を塞ごうとも喧しい筆談相手を僕は知っている。

 蝉の婚活パーティーの騒音被害含め、ギラギラ照りつける太陽、ジメッたい湿度、蒸し暑い空気、吸う息の濃い不快感も揃えば役満だ。地球温暖化さんの過労を諌めてやらねば夏ってもんは永遠に暑いままだろう。嘆かわしいことこの上ないのだが、彼女であれば気の利かない皮肉で誤魔化してくれそうなのに。

 ……あぁ、嘆かわしい。嘆かわしい。

「……おーい、岸辺さーん。きーしーべぇさーん。……あれ、寝てんのかな」

 ……たしか、眠ることはできる、のだっけ。

 洗面所からは聞こえないのだろうか、と和室の障子も開けて呼びかけてみたのだが。……しかし、反応がない。とはいえ反応って言っても、相手は幽体化している透明野郎だ。僕のだる絡みをいち早く察知して黙って生還しているだけやもしれん。にしては、存在感というか、独特の気配すらないわけだが。

「……もし君に隠れんぼなんてされた日にゃ、僕には探す手立てさえ無いんやけどなぁ」

 そのへん、ちゃんとわかっているのだろうか。あのナンチャッテ優等生さんは。

 ……しかし、本当に眠っているのであれば、どう起こしてやるべきなのだろう。

 幽体化少女相手の目覚まし役。わからないが過ぎるが、「もー(はーと)、お寝坊さんには、お・し・お・き・だ・ぞ(ぷりてぃはーと)」みたいな幼馴染ムーブなんてどうだろう。お仕置き、何が良いのか。この身体で全裸徘徊でもすれば嫌がるだろうか。僕が嫌だからやらんが。っていうか、僕が脱ぐのか。

 ……よ、よーし、思い立ったが吉日。

「……う、うへへへ。悪い女の子には、お、お仕置きしちゃうぞー(ちゅっちゅ)」

 ……あれれ、ちくしょう、やっぱり反応が無いじゃないか。

 おじさん構文なのがマズかったか。それともそれ以外か。十中八九、後者な訳だが、それだと文字通り僕は彼女に手も足も出せないのだけれども。どうやって彼女にコンタクトを取れば良いのか。見えない、聞こえない、臭わない、触れない、……これじゃあまるで、いないみたいじゃあないか。

「……書き置きだけでも机の上に記しておこうかな」

 ……文化祭二日目、岸辺が行かないなら、僕が行くべきか疑問が残るが。

 ……まぁ、解決していない事もある。行くだけ行って、無理なら帰ろうかな。


『岸辺さんへ、

 文化祭二日目に参加してきます。

 午前中は学校にいますが、岸辺さんが来そうに無いなら帰ります。』


 ……こんなもんかな。

 文字ならともかく文章なんてものを書く機会が少ない僕だったのだろう。文法的に、またコミュニケーション的に正しい書き方なのか気になるところではあるが、どうせ読むのは岸辺さんだ。正解でも不正解でも返事は『馬鹿なのですか?』から始まることだろう。ディスコミュニケーションじゃねぇか。

 人間的に正しくない人だし、セーフ、セーフ。

「……にしても、腹減ったなぁ。何か屋台のレンチン商品でもつまもうかしらん」

 冷蔵庫には既に買い置きの飯はなかったはずだ。

 ……あぁ、マズい。体調もめっぽう優れない。妙に頭がガンガンと痛む気がする。

 テンションの振れ幅も制御が効いていない。この分だと、登校すぐに帰宅かもしれない。

「……どのみち、一人じゃ遊ぶ気力も湧き起こせそうにないんやけど」

 


 

 この時の僕は、底抜けに呑気なものだった。間抜けそのものだった。

 崖から落っこちている自覚すらない僕は、散りばめられた違和感をまるで拾えちゃいなかった。いや、拾う気さえなかったのだから当然なのだが。四隅の角が暗澹としている廊下、そこに蠢く胎動にも気づく事なく、平穏で、平静で、平凡な日々の享受を約束されていると、いまだに勘違いしていたのだ。

 ……『彼女』は、僕の書き置きを眺め、何を思ったのだろう。何を感じたのだろう。

 ……それは、その張本人である『彼女』以外に、もはや誰にも知る由がないのである。

 ただ一つ、断言できることがあるとすれば、


 過程も、結末も、なにも笑えないことだけが全貌だった。

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