第36話 □月□□日八時二十分。
玄関あたりで粘ってはみたものの、やはり岸辺さんからの返事が来ることはなかった。
「……ほんまに、どないしたんやろ。やっぱ、待つべきやったんやろか」
結局、一人で風呂に入り、支度を整え、ここまで来てしまった。
ただ、もう既に遠目に西大津高等学校を捉えられる距離にまで来てしまっている。帰宅よりも登校の方がずっと近い距離であり、もはや今更ながらの悩みな訳だ。岸辺さんも手のかかる幼児じゃあるまいし、一昨日なんて留守番だったのだ。特段配慮する必要もないのだが、どうにも居た堪れないのは何故だろう。
……それにしたって、暑い。暑いぞ。昨日の雨脚とは一変、雲ひとつない晴天だ。
……夏の薫り。きっとそれはカラカラと干上がっているアスファルトの匂いに違いない。
「……あぁ、、、暑い、暑いと唱えれば暑くなくなる魔法じゃあるまいて」
人間、ないし、僕のような自堕落人間は、こよなく無駄を忌み嫌うのだ。
しなければならないことまでもしない主義なのだから、折り紙付きの主義である。
……だから、無駄なエネルギー消費は止そう。
「……それに、もうすぐ学校や。変な独り言なんてぼやいていたら…………あれ?」
……変な独り言をぼやいていたら、変な目線を送られてしまうじゃないか。なんて、ぼやいてやるつもりだった。
……あれ、……なんか、……あれ??
「…………なんか、おかしくないか?」
はじめに抱いた疑念は、違和感と呼ぶにも曖昧でモヤッとした感情だった。
個性と捨てた校章、そして『県立西大津高等学校』の看板。見間違えようもなく、ここは岸辺織葉の母校である。だが、モヤッとした感情は徐々にズシリと重みを持ってのしかかってくる。……まさか、気の迷いで別の高校へ来たしまったわけではあるまいな、と不安になるぐらいの疑念が心に蟠る。
だが、なんだ、この、この言い知れぬ違和感は。
まだ登校四日目、その分際でわかった口を利くべきではないのだろう。
しかし、ここからの学校風景は記憶上・覚えている限りで言えば、一般的かつ平均的であり、日本において最も普遍な風景であるはずなのだ。まったく滞りのない日常風景、どこにも齟齬のないありふれた日々の一ページ。それは登校している生徒群にも同じであり、今日も一日を過ごさんがための制服姿で、、、
「……制服姿、で、…………え、あれ?」
それが、いやに、引っかかった。
どうして皆一様に制服姿なのだ。
昨日、僕は少なくない人数の生徒がカラフルなクラス独特のTシャツを着用している姿なんてものを確認していし、そんな彼ら彼女らが次々と来店してくる都合上、接客も行なっていたはずである。……僕の知見に狂いがなければ、クラスTシャツなんてもんは文化祭一日目と二日目で違いはないはずである。
……だったら、どうして、今日は制服姿の生徒が多いのか、、、
……あれ、……いや、待て。
「……今日は文化祭二日目やろ。……終わりや、ないんやろ?」
ハッとして、僕はさっき通った校門へと振り返る。
今日ばかりは、寸分違わぬ三百六十分の一な日常であってはならないのだ。
それは、看板や校章を引っ提げている校門も同じである。
あの、艶やかなペーパーフラワーが、日常を呑み込んでいなければならないはずなのだ。
鮮明に浮かぶ。あの段ボール製の『西大津祭』なる掲示。
……その面影さえなく、『いつも通り』がそこにあった。
「……あれかな。……雨、やったから。うん、それで撤去したんやろ」
だから、なのだろうか。そんな理由で、校門にあった装飾が取っ払われたのだろうか。だったら、今、僕のいる中庭が日常であることも同じ理由なのか。あの所狭しと賑わっていた屋台の数々が跡形もなく消失している。僕の周りは、まるではなっからなにもなかったかのように、平穏が撒かれていた。
陽炎揺らめく初夏、そこには確かに『不気味』が存在した。
玄関入り口は際立って暗く見える。まるで、昼前の夜のようだ。
登校一日目にも同じような現象を体験したことを覚えている。ただ、一日目のそれが『不安』ならば、今日のこれは『歪み』のようだ。
「…………あー、脳がバグる。なんや、これ。……おかしいやろ」
白を基調とした廊下は、手前から奥まで、まるで文化祭色を感じなかった。
昨日までの特別な色彩は剥がれ落ち、今じゃ上履きの青色さえ眩く見えるほど。
……それが、もう、たまらなく、怖かった。
……どうしようもなく何かが間違っていた。
文化祭二日目に浮かれていた気分の自分は何処へやら。沈んだ心の足枷は教室までの道のりを歩くことすら拒もうとしている。だが、逃げるわけでも行かない。もう、こんなところにまで来てしまった。好奇心の勝利ではないが、この『不気味』の正体を知っておかなければならない気がする。
……たぶん、僕は『安心』を求めていたのかもしれない。
……そう思えば、これは一日目の心情とよく似通っている。
全てを丸く収めてくれる、絶対的な『解』を、
大丈夫と言ってくれる、信頼できる『友』を、
それでも、僕は希求し、前へと進んだ。
しかし結果、『三年一組』の標識に到着し、息が詰まりそうだった。
三年一組の出し物『占いの館』は、きれいに消失してしまっていた。
不純物を蓄えた血液が血管を蝕んでいるような不快感を覚えた。
僕は、それでも、『何か』を求めて、三年一組のドアを開ける。
思えば、思えば、思えば、似ているどころの騒ぎではなかったのだ。一緒なのだ。まるっきり。□□日と、全部、一緒なのだ。ビビり散らかす僕を差し置いて、世界はぐるぐると回り、物事は急速に流転する。因果の定めの下、ひょんなことの積み重ねの結果、それを運命と言うのかもしれないが、西大津高等学校は文字通りのいつも通りを過ごしている。それが普通で、決まっていることで、迷いようもない『日常』なのだ。
……ただ一つ、たった一つ、異なった点があるとすれば、
……それは、たった今、甲高い予鈴が校内に響いたことだろうか。
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