第34話 七月二十三日、午後十時四十二分。
夕刻もとっくに過ぎ去って久しい暗い夜中の琵琶湖沿い街道。
「……雨、明日には上がればええんやけど」
『そうですね。きっと降り止みますよ。』
蒸し風呂のような夏の蒸し蒸しとした暑さに目が冴えてしまい、寝付きの悪さを誤魔化すついでに散歩にでも出かけようと思ったのだが、『私も同伴させて頂いてもいいですか?』と意外なことに岸辺さんからの提案で街道を共に歩いている。小波立つ湖畔の景色は、点々と反射する灯をしわくちゃにしていた。
ジリジリと電流迸る音を焚く電灯の下で、なんの気なく、ただ歩いた。
「……文化祭、今日は退屈してたらごめんな」
『あまり思い上がらないで欲しいのですが。馬鹿風情が自身の努力で私を楽しませようとするだなんて策謀を企てることが既に愚かです。』
「……はいはい。馬鹿で愚かで失礼しやした」
『マイ・タロットカード、私も後学のために購入を検討すべきでしょうか?』
……あらあら、思いのほか、ガッツリ楽しんでいらっしゃったのね。
「……夜の街道を散歩するってのも、なんか乙なもんやね」
特に、吸い込む空気が静かで澄んでいるのがとてもいい。この街道、琵琶湖側の反対側には車道が通っているのだが、そこは流石の大津市、それほどの交通量ではない。それに街道としてもしっかりと整備されているおかげでボーッと出来る散歩コースとしては申し分ない。田舎すぎず、都会すぎない。哲学者のアリストテレスも中庸を説いたように、我々もまたいい塩梅ってのが一番心地いいのかもしれない。だから大津市は最強なのです。大津市最高と言いなさい。
……あとは煌々燦めく星空さえ拝められれば、
……きっと、悩みの種の全てがどうでもよくなれるのに。
『そうですね。現実逃避が出来ますから。快晴ならより完璧でしたでしょうに。』
「……ねぇ、ちょっと、僕の心を読んでいらっしゃらない?」
『馬鹿の考えなんて興味ないですよ。私もしたいってだけ。』
なるほど、僕の心は読むに値しないってわけですか、そうですか。
もう三日も経つらしい。『僕』なる謎の人物が岸辺織葉の身体に憑依し、岸辺織葉が幽体化、久遠詩織と出会い、飯を食わせてもらい、幽体化ガールにびびらされ、校舎の窓ガラスが全て割れ、化け物との邂逅に久遠詩織との仲違い。そして、今日の文化祭。
「……岸辺さんはさ、何を、現実逃避してみたいん?」
『いろいろです。忘れられれば、なんて山のようにありますよ。』
……忘れたいこと、僕の杓子定規によれば、謂わば『債務』なのだ。あれをしなければならない、あれをすればよかった、あれをするべきではなかった、過去形か未来形かはともかく僕らは何時だって何かしらの債務を抱えている。僕らは何時だって債務に懊悩している。
だったら、彼女の抱える『債務』ってのはなんだろう。
「……思っていたよりも、僕は岸辺さんのことを知らへんねんなー」
『それは傲慢ですよ、馬鹿。知った気になる程度で留めておくべきです。』
「……でも、それじゃあ岸辺さんの悩みの相談にも乗れへんしなー」
……あれ、何言ってんだろ、僕。
……あれ、本気で何言ってんだ、僕。
「……あー、いやー、気楽にね。そう、気楽に生きよう的なね!!」
なーに言ってんだろ、と熱くなった顔をパタパタ手団扇をしてみる。
そんなことをしているから、手持ちのメモ帳の綴られていた文字に気付くのが遅れるのだ。
『私と言う人物は、貴方が思っているよりもずっと、ずっと、気持ち悪い人間ですよ。』
岸辺織葉が、自虐を述べていた。
「……なにゆーてんの?」
自身の存在を執拗に毛嫌いする人種ってのは世界各国一定数存在するものだろう。それは謙虚と呼べば箔がつくが、実際は自己肯定感の低さの露呈に他ならない。そして、その大半は膨張した自意識が原因である。主観が客観と転倒し、自分の等身大など見れない自分の目で自分を評価してしまうのだ。
……つまり、他人からの評価を自分で決定してしまう現象だと、僕は思う。
……しかし、彼女が、岸辺織葉が、この手の嫌悪感を示すものなのだろうか。
「……実はさ、前々から岸辺さんがなんか一人で悩んでいることは察していたけどさ」
……もしかすれば、彼女は、岸辺さんは僕の思いも及ばない爆弾を抱えているのではないか。あの時、「貴方はどうしたい?」と尋ねられた時から、ずっとそう思っていた。それは卑怯な僕がずっと見て見ぬフリをしていたのだから、きっと間違いなかったりするのだろう。
ただ、今更ながら、僕は彼女のために何をしてやれると言うのか。
「……なぁ、岸辺さん、笑わずに聴いて欲しいんやけどな」
おいおい、僕よ、どうせ馬鹿なのだから恥を掻き捨てられなきゃなにが残るってんだ。
微力にもなれやしない『僕』なのだ。やれることなど、たかが知れているじゃないか。
だったら、あとは、なけなしの勇気を振り絞るだけじゃないか。
「……僕は、その、岸辺さんと友達にっ――――――」
――――――しかし、ピーポー、ピーポー、と、
怪我人でも出たのだろうか、救急車の甲高いサイレン音を撒き散らしながら車道を通り過ぎていった。急行なのだろう。それに、あっちは確か、学校方面じゃなかったか。昼でもないこの時間帯に何故。文化祭のあと残り組に何かあったのだろうか。救急車から連想されるイメージは悉く不吉なものばかりだった。
「……なんや、あれ。なんかあったんや――――――」
それは、降り頻る雨粒の一滴にしては大き過ぎた。重過ぎた。歪過ぎた。
遠巻きにチラッと見えたひしゃげたガードレールに、やけに近く思えたダブルタイヤ。
――――――フロントの抉れた大型トラックが目と鼻の先を舞っていた。
――――――がしゃり、がしゃり、ぐしゃり、と。衝撃が鳴った。
「…………あ、がっ?」
ビニール傘が風に攫われ虚空を泳いでいる。取りに行かなくちゃ。しかし、身体が思うように動かない。動こうともしない。ピクリとも。指先一本も。
「…………な、に……が?」
相当な大事故が身近に発生した、それだけはすぐにわかった。
ただ泥水に混じって絡み合う鉄の味が僕をひたすらに混乱させるのだ。
汚泥を啜り、髪がずぶ濡れ、そして燃え滾る炎が鼻腔を埋め尽くす。
真っ赤な、真っ赤な、眼前の液体が、
身体中を這うこの不快なベタベタが、
自分の『血液』だと認識するのに時間を要した。
ひとまず立ち上がって様子を伺おうにも、身体の四肢が全て言うことを受け付けない。特に脚がひどい。両脚だ。感覚すら薄らとも感じないのだから。
だから、僕は何気なく見遣ったのだ。
腰から下が、そこにはなかった。
横転している大型トラックの荷台の下から伸びる血飛沫だけが下半身の痕跡だった。
あぁ、潰れている。無惨にも潰れてしまっていると、まるで他人事のように理解した。折れているとか、神経が切れているとか、そんなもんじゃないと瞬時にそう頭のどこかで『理解』した。初めはちょっとした痒みだった。上半身と下半身の結合部だったあたりに、モゾモゾっとした痒みを覚えた。
そこで、ようやっと、僕の『実感』が湧く。
「…………あ、痛い」
僕は、大型トラックに轢かれたのだ、と。
「――――――あぁぁ、あああああああああああああああああああああッ!!!」
地獄があるのならば、それはきっと、ここより幾分かマシだろう。
痛みが、激痛が、津波のように間断許さず脳天に突き抜ける。
肉が挽かれ、骨が砕ける様は悶絶如きで緩むはずがなかった。潰れている。潰れている。潰れている。びくりとでも逃れるために動いてみようものならば、その機微に相関しない理不尽が、下半身を潰されているという事実と共に逃れようのない重苦が襲い掛かる。
下半身などなければよかったと、そう思えるほどの、
「痛いッ!!」
「痛いッ!!」
「痛いッ!!」
「痛いッ!!」
「痛いッ!!」
もがく、もがく。右腕の肘もあらぬ方向に曲がってしまっていたが、それこれ構わず荷台を叩いた。一センチでも、一ミリでも、動け、動け、と。ほんの少しの苦痛のからの解放のために血流垂れ流れる拳で大型トラックを殴った。しかし、矮躯の抵抗などたかが知れている。
ひたすらに、無駄な血反吐をぶち撒けるばかりであった。
「……いやダ、こんナの、イヤだッ」
ここで、こんな風に死ぬのか、僕は。死にたく無い、死にたく無い、死にたく無い、死にたく無い、死にたく無い。まだ、まだ、まだ、僕は、なにもしていないじゃないか。なにも、まだ。……こんな死に方、嫌だ。
「……助けテ。……タスけてよ、岸辺サん。僕は、マだ、死にたク無」
…………あれ、誰だろう。首に索条痕のある女の子がいる。
…………泣いてないで、助けてくれよ。
七月二十三日、午後十一時八分。
死因:大型トラックによる轢死
場所:琵琶湖沿い街道/岸辺宅より十分程度/□□宅より十分程度
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