第21話 七月二十二日、午前六時二十八分。

「…………ご馳走様でした」

 和の心を尊び、両手で祈るように手を合わせる。

 カップ麺と言えども、元は生命、元は生物。生き物の命を味わって食べるってのは、それだけで生きてきた生命体の軌跡を胃に収めるということなのだ。ありがとう、生き物。ありがとう、食材。今日も生きていることに、感謝、感謝。……で、どうして僕は生かされたのだろう。

 小鳥のさえずりに、割れた窓から荒ぶ早朝の風。

「……聞きそびれてたけど、なんで窓が割れてんねやろ」

 そんなことを、ぼんやりささくれ立った畳に座りながら耽る。

 汁まで飲み切った空のカップ麺の容器に箸を載せ、ご馳走様でした、と手を合わせる。僕はふと洗面所を眺めた。二、三発はぶん殴られるだろうと覚悟していたのだが、まさかのまさか、僕が入浴するために色々と世話を焼くと言い出してきたのだ。

 テーブルに置かれた生徒手帳の自由欄に綴られた文字を目で追う。

 

『私の指示にすべて従うのであれば、入浴を許可します。』

『決して、決して、貴方の為なんかではありませんので。』

『絶対に、勘違いしないでください。』


 またまた、デレちゃって。そんなことを言った気がする。


『このぶんを加味して、ちゃんと同害報復は受けてもらいますから。』


 清々しいほどの脅迫文じゃねぇか。そんなことを叫んだ気がする。

 あの人、消しゴムは飛ばせる、布団は敷ける、風呂の用意もできる、これだけ聞けば幽体化というより透明人間に近いように思う。そっちの方がホラー感が薄まるし、便宜上でもそう呼称すればいいのにそうしないってのは何か幽体化ならではのことができたりするのだろうか。

 不可視なもんでよくわからんが、今は洗面所の奥の浴室で準備をしてくれているであろう岸辺さんに聞けばわかるのだろうか。

 ……しかし、うーむ、今更ながら罪悪感がある気もしてくる。

「……なんて声かけるべきなんかな」

 頬杖をしながら、洗面所を眺める。

 昨日の朝、確かに、衛生面を鑑みて風呂には入るべきではあったのだろう。しかし、仮にも岸辺さんは乙女、年頃のうら若き乙女、なのだ。あれでも。それを意中にもない何処ぞの馬の骨ともわからぬ僕なんぞに素肌を素肌が晒されていたなんて屈辱だろうし、そんな思いはしたくなかっただろう。

 そんな思いを汲まずに、僕は今日も入浴したいと言ってしまったのだ。

「……肩でも揉んでやれれば、ちょっとはこの気分も晴れそうなんやけど」

 しかし、あれは霊体らしいのだ。だから、なんというか、不謹慎なのかもしれない。

 僕は岸辺さんを揶揄するし、反抗もするけど、不愉快になって欲しいとは思わない。

 ……元は僕の頼み事だ。

 ……せめて、手伝うぐらいしよう。

 立ち上がるついでに空のカップ麺の容器をキッチンの流し台に置き、その足で洗面所のドアを開けようとした。開けようとしたのだが、どういう了見なのかよくわからないが女性が洗面所にいるってことを意識すると気恥ずかしさが湧き、わざわざノックをした後、「入るよー」と一声かける。

 そしてドアノブを握った、ちょうど、その時だった。


――――――バリンッ。


 洗面所内から何かが割れる音がした。何かは見てない故によくわからなかったが、硬いものだった。

 大丈夫かどうかでいえば、ちょっと心配になる音。

「……おーい、大丈夫?……なんか物音したけど?」

 僕の心配とは裏腹に返事はなかった。それは当然だ。聞く相手は幽体化した幽霊なのだから、見えないだけではなく、聞こえもしない存在。だから僕の考えつく『もしも』なんて可能性は著しく低いだろうが、それなら心配はしなくてもいいって道理もないだろう。返事はなかったが、ドアを開けようとした。

 

『大丈夫だから。問題ないから。』

『だから、開けなくてもいいです。』


 だが、急に目の前に現れる白紙と文字列。それに驚き僕の手も止まる。

 既視感しかない機械的な文字。これは岸辺さんの筆跡だ。どこからかみとペンを用意したのだろうとか、どうやって書いたのだろうとか、さっきまで洗面所内にいたはずなのに何故出てこれているのだろうとか。これら全ての疑念が幽体化、つまるところ幽霊なのだから、なんとでもなってしまうのだろうと思ってしまいそうになるが。……だからと言って、それで思考を止めるってのも、ちょっと躊躇してしまう。

「……なんか、結構な音やったけど。どないしたん?」

『ちょっと不手際があっただけです。心配には及びません。』

「……いや、やったら後片付け手伝うよ。掃除とかいるやろ」

『いいですから。そこで待っていてください。』

 どういうわけか助力の手を全て固辞されてしまった。そういう自分の不始末を他人に見られたくない系の心理ってのはわからんでもないが、だからと言って引き下がるのも何が違う気がして。とはいえ、無理に介入して場を荒らすってのも本意じゃない。静観が吉だろうが、……まぁ、それはともかく、だ。ドア越しなのか真横にいるのかよくわからん彼女には、一つ聞かねばならんことがあったりする。

「……で、怪我とかは?大丈夫なん?」

 僕の愚問には即回答するのが岸辺さんだったのだが、、、

 珍しいことに、これにはわんぱく回答が遅れて返ってくる。

『なんですか。』『私の心配でもしてくれているのですか?』

 ……などと。なんだか的外れな聞き返し方をしてくるもんだから呆気に取られる。

「……は?……いや、心配するに決まってるやんか。幽霊やろうとなんやろうと、痛いもんは痛いやろ」

 ばーか、と言ってやりたい衝動に駆られるが、そもそもを辿ればこれは僕の頼み事を彼女が聞いたことが嚆矢なのだから、あまり大口を叩きすぎるってのも実害が出そうでやめた。奴ならば本当に僕を殺しかねない。ここまでにちょくちょく心象の悪いことを言ってしまっている故になおさら。

 佳人薄命とはよく聞くが、馬鹿も薄命だったりするのだろうか。

 ……なんて下らない事をダラダラと考えていると。

『馬鹿ね。幽霊が怪我をする訳ないでしょう。』

「……そ。なら、よかった」

 そんな幽霊事情知らないのだが。あいにく僕は人間なもんで。

 だが、ほんのちょっと、ほんのちょっとだけだけだけれども。敬語じゃなかったことが嬉しかった気もしたりした。もしかすると僕は噂のチョロインだったりするのかもしれない。ツンデレ気質のチョロインだなんて平成初期の量産型じゃないんだから弁えないと。

『そんなことよりも、もう直に準備が整います。さっさと準備してください。』

「……お、おー。それはそれは、ありがとうございます」

 ……なんて思っていると、すぐに敬語に戻ってしまった。

 ……きっと、僕と彼女とで足りないものは、情報であり、知見であり、頼れる人手であり、そして何よりも『話し合い』だったりするのだろうか。

 僕は、君をよく知らない。

 君も、僕をよく知らない。

 そして僕自身、『僕』のことがまるでわかっていない。

 それらのわだかまりを、これから僕等は一つ、一つ、解きほぐしていかないとならないのだろう。おそらく、それは一人じゃ敵わないものばかりだったりするのかもしれない。……けれども、ラッキーじゃないか。僕らは自分以外にも同じ境遇の人間が身近にいるのだから。

 ……僕は、『僕』を知ろうと思う。

 ……そして、僕は君を知ろうと思う。

 そうすれば、君のことを少しずつでも知れたならば、


 僕は、君の昨晩のあの言葉の真意ってのも、わかるのかも知れない。


 ……んー、秘密を暴くってのは人を知るだけやり辛くなるもんだったりするのかな。

 岸辺さんから『準備をしてください。』なんて言われたものだから、寝こけている間に着せられたであろうパジャマを脱ぎ始めていたのだが、思いのほか強めに殴られてしまった。たぶんグーでしたよ。せめてパーにしなさいよ。これ、元は君の身体なんだからね。

 こんな体たらくで僕が君のことを知れるのかどうか、、、

 そんなもん、神のみぞ知るってところだろう。

 ……もっとも、神なんているのか知らんけど。

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