第20話 七月二十二日、午前五時五十九分。
――――――ピーポー、ピーポー、ウー、、、
けたたましいサイレンを鳴らすパトカーがすぐ横を通り過ぎたってことがわかった早朝の朝六時、ボロ屋の薄壁がそのような轟音を阻めるわけもなく僕の意識は半ば強制的に現世へと引っ張り戻されてしまった。ボサボサの髪の毛を無造作にかき乱す。
「……なんだ、朝か。……おはようございます」
『おはようございます、お馬鹿さん。私に敷かせた布団の寝心地はいかがでしたか?』
生徒手帳の自由欄に綴られる機械的な文字列。岸辺織葉の文字である。
あれれ、岸辺さんや、どうして君は朝っぱらから妙にご機嫌が斜めなのかな。だめだよ、だめだよ、キミ。朝ってのは平穏無事で、それでいて救われてなきゃならんのだ。そうでなくっちゃ、暗闇の夜に僕らは何を待っていればいいんだ。明るく輝く、そんな朝でなくっちゃ、夜は明けないぜ?
……それはそうと、はて、、、
「……ところで、僕はいつの間に寝てもうたんや?」
『馬鹿なのですか。だから私は、私に敷かせた布団の寝心地を貴方に聞いたのですが。』
……あらやだ、朝っぱらからナゾナゾなんて、馬鹿な僕に解けるわけ、、、
「……あれ、もしかしてなんやけど、」
『コンビニから帰宅早々廊下で熟睡でしたよ。あろうことか私の顔で無様に間抜け面を晒して眠ってしまうのですから、本当に呆れて言葉を失いました。そのせいで私が布団を敷いて、私が貴方を着替えさし、私が貴方を運ぶ羽目にもなりました。』
「……お布団、その幽霊状態で敷けたんですね」
『そうです。私が、敷いたんです。お礼ぐらい欲しいものです。』
嫌味を零されながらも、布団を敷き、僕の身包みを剥ぎ、僕を運ぶ、これら一連の物体への干渉を安易と行えたということはそれなりにびっくりだった。もっとも、礼を述べないのは、礼を述べたくないからである。僕はね、岸辺さん、お礼ってのは心の奥底から思っているから意味があるのであって、心にもないことを言うもんじゃないと思うんだ。だから、僕は礼を言わない。これは勇気の(お礼の)切断なのです。
ともかく、『物体』への干渉はできるらしい。
そういえばこれ、昨晩にも言ってたっけかな。
ウンタラカンタラ幽体化について話していた時に言っていた気もするし、言っていなかった気もする。いや、思えば消しゴムも転がしていたじゃないか。後に聞けば『気付いて欲しかったものです。』云々らしかったのだが、それはそのままポルターガイストなのをわかっているのだろうか。
危うく曰く付き物件になっちゃうから、ここ。
「……しかし、器用なもんやね。すっごーい」
『おべっかは結構ですので、誠意の籠ったお礼を聞きたいです。』
うるせぇな、この野郎。それがお礼を言われる態度なんか。こっちだって素直にお礼くらい言わせて欲しいものをネチネチ、ネチネチと水を差しやがってからに。もうお礼なんて言ってやるか、ぷんぷん。……っというていでお礼をやり過ごそう。
実際は、この女相手に間違っても頭を下げたくないだけなのです。
「……にしても、まだ六時なんか」
グーッと背筋を伸ばす。なんだか妙に徒労感が残っている気がする。
もう一眠りしたいものだ、と、それでなんとなく気になることがあった。
「……そういえば、岸辺さんも、あのサイレンで?」
『いいえ。私はただ眠れなかっただけです。』
「……それって、その、幽体化のせいなん?」
『いいえ。おそらくですが、眠ろうと思えばきっと眠れたのだと思います。』
……『ただ、』と自由欄に書き足す岸辺さん。
……『ただ、夢を見るのが怖かっただけです。』、と。
夢、睡眠中に見る幻想、それを怖がる心理ってのはどんな状態なのだろうか。少なくとも明日を待ち侘びているだとか、はやる気持ちが昂るせいだとか、そんなもんではないことだけはわかる。僕は『僕』のことばかり気掛かりだったが、彼女だって被害者で、どうしようもない現象の渦中にいる。
そりゃ、『不安』だろう。自分に身体が無いのだから。
だが、僕では、その不安の穴を埋めてやれない。
「……それはまた、厄介なもんやね」
だから、事実から顔を背けてやるぐらいしかできなかった。彼女の底知れない『不安』ってのを、わかってやる、なんて真似は僕には烏滸がましく感じたためだ。僕の僕の身体が無いからお互い様だ、ってか。お互い様ってので『不安』は解消されるのか。僕は、それは違うと思う。
だから、卑怯かも知れないが、せめて黙ることにした。
――――――ぐーっ、と。
――――――腹の音、だ。
おもむろに、超弩級の腹の虫のいななきが静寂を切り裂いたのだ。
「……人間ってのも厄介やね。飯を抜くとすぐにこれや」
『私の身体で、私の資本です。管理を怠るようなら呪いますから。』
おうおう、シャレになってない、シャレになってない。そう言えば昨日買った例の焼きそばがあったじゃないか。朝っぱらから焼きそばとはなかなかにヘビーな気もするが、僕の空きっ腹はそんなことお構い無しのようで、焼きそばを連想しただけで腹の虫が急かすほどだ。
「……じゃあ、これ、いただこっかな」
まるで置いた覚えがないテーブルに焼きそばが二つ。
本当に廊下で死んだように眠りこけてしまったらしく、その後の世話を本当に全て岸辺さんに任せっきりにしてしまっていたようだ。ありがとう、岸辺さん。あらやだ、心の中では意外に素直になれちゃうのかしらん僕。ツンデレなのかな。いいえ、これは陽キャが陰キャ君にノートを見せてもらった時に発する「さんきゅーなー」程度のものです。すなわち心にもない戯言です。あれ、金取っていいと思うのです。千円ぐらい。
これは調理と言えるほどのものじゃないのだろうが、それなりの準備やらも必要となることも事実。
さっさと湯を沸かして、かやくをぶっ込んでおいて、三分待つ準備をしておこう。
……っと、その前に、、、
「……さきに風呂にでも入ろっかな」
……ほんと、あっついし。
『何を』『何を言っているのですか』
じめっぽく蒸れる胸元を扇ぎながら思案する僕に横槍を入れる無粋な文字列。相当な焦りようなのだろう、文字が一度途中で切れてしまっている。心なしか機械じみた文字列が歪んでいるように見える様が人工知能の感情の萌芽みたいで面白かったが、それはそれ。何が言いたいのか聞かねば。
「……え、何が?……僕、風呂入りたいんやけど」
『貴方は、何をどうして、当然に入浴しようとしているのですか?』
……風呂に入る理由を聞かれてしまった。
「……えっと、流石にお風呂に入らないとばっちいと思うんやけど」
『恥じらいとか、ないのですか?』
……おいおい、その言い草だと僕がまるで変態みたいじゃないか。僕はただ、女の子の身体のまま素っ裸で湯船に浸かり、柔らかな肢体を隅々まで余すことなく丁寧に洗って、すっきり気持ちよーくなりたいってだけなのに。この欲求不満を、満足させたいだけやのにっ!!
……なるほど、なるほど、変態じゃねぇか。
「……あの、その、すみませんでした」
『どうして過去形なのですか?』
「……んー、気持ちのいい朝やね、、、」
そりゃ、もちろん、もうすでに前科があるためでして。
『私は、どうして過去形なのか、教えてくださいと言ったのです。』
しかし、食い下がる岸辺さん。これはあれだ、目線を逸らして一定時間無口を貫けば向こうが折れてくれるとか、そんな甘い算段は捨てるべきだ。込められている殺気が溢れんばかりに突き刺さる。どうしよう、今の僕にある選択肢が普通に死ぬか惨たらしく死ぬかの二択しかないのではないか。
睨まれている。目線こそ見えないが、猛烈に睨まれている。
「……そのぉ、あのぁ、怒らんで聞いてくれる?」
……なんて確認まがいな試みをしては見るが、これで怒られなかったケースを知らない。
ただ、ほんの一縷の望みのようなもんを、願望とも呼べないもんを、胸に抱きながら。
「……この部屋の浴槽、ちょこっと小さい気がしますね!」
『はぁ。死ねばいいのに。』
返ってきた言葉は、普通に殺人予告でした。
とはいえ、そも、岸辺さんから『怒らないですよー。』『大丈夫ですよー。』なんて返事が前もってあった訳でもないのだから、僕が風呂に入ったって事実がある以上、僕が許される希望なんてもんははなっからないんですけどね。はは、殺気が漏れてるよ、って教えてあげたほうがいいかな?
たぶん、僕は今日か明日あたり死ぬんだと思います。
……できればでいいので、優しく殺して欲しいと思います。はい。
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