第19話 七月二十一日、午後九時一分。
機械文字よりよっぽど機械っぽいフォントの文字を連ねるわりに、ずっと存在が不合理で非論理的な塊の少女、『岸辺織葉』。行方知れずであった彼女の消息は、あまりにも近く、されども遠回りしてしまった僕の、すぐ横にいたらしい。
月光揺らめく琵琶湖の湖畔の道沿いを歩く。
車の通りはともかく、歩行者の少ない街道。
僕は傍目に一人、買い物袋を片手に引っ提げたお腹ぺこぺこ少女にでも見えているのだろうか。僕は僕を少女だなんて見ることも述べることも断じてないが、まず先に一人って文言ぐらいは否定しておいてやらねばならない。こう見えても、僕にはよくわからない隣人がいるのらしいのだ。
彼女は、幽霊になっていた。
『七月二十一日、八時頃からの貴方の動向を詳細に教えてください。』
いろいろと不気味ではあったが、一寸の狂いもなく文字を手帳の罫線に沿って綴られているって事実が個人的に一番キモかった。なんて言おうもんなら超ロジカルに滅多刺しの悪口を延々と書かれそうなので、うわぁー、って目だけをしておくにとどめて置こうと思う。
「……七月二十一日って、今日のこと、ですよね?」
『それ以前の記憶がないと仰る方に昨日のことを聞くとでも?』
ならばさっさと「今日です。」って言いなさいよ、この野郎。
「……まー、うん。ご存知の通り僕には記憶ってもんがないから。初めは、って言うかさっきまで僕、僕が『岸辺織葉』なんじゃないかって思っていたぐらいやし。だから上手く伝えられるかどうかわからん上に有益な情報を落とせるかどうかもわからんけど、それでもええの?」
『有益かどうかは私が判断します。』
さいですか。ならば遠慮なく、今日一日の涙ぐましい僕の奮闘記を話すとしよう。
――――――僕は目線も合わない少女に話した。
――――――目覚め頃から記憶がないこと。
――――――性自認に違和感があったこと。
――――――西大津高等学校へ登校したこと。
あの気色の悪い担当教諭の話については伝え方が本格的にわからなかったために話さなかった。元来からあの性格であれば、それはただの悪口にもなってしまう危うさもあったからだ。それと久遠さんからの施しについても話そうかと思ったが、変に気恥ずかしくなったために大雑把な説明だけにとどめておいた。とりあえず看病してもらって、飯を奢ってもらったって事だけは伝えておいた。
『そうですか。あまり有益な情報はありませんでしたね。』
だからそう言ったじゃないですか。なんなんっすか。
「……その、まぁ、うん。そうこうあって、、、」
『その後は結構です。アパートでの一件は私も当事者ですので。』
……そうでしたよね。紆余曲折あって君に散々泣かされましたものね。はい。にしても、存在を認知したおかげなのだろうか、会話をしている今現在は先ほどまでの恐怖心はまるで嘘のように霧散している。幽霊の正体見たり枯れ尾花とはよく聞くけれども、正体が女子高生とわかったから怖くなったのも道理だったりするのだろうか。いや、あれを女子高生だとわかっていれば怖くなかったのかと言われれば怖いのだけれども。
それはともあれ、僕を泣かせた件についての謝罪がまだないことは流石は女子高生と言えよう。
納得のいかない感情をぶら下げながら生徒手帳を見直すと、『もういいですか?』の文字。
開き直りの段階さえ吹っ飛ばす図々しさに対し「全然全く問題ないですが?」とだけ返す。
「……と言いますか、僕の方こそ、君の動向について聞く権利があると思うんですけど。聞けば七月十五日以降の一週間、ずっと行方を眩ませていたらしいやないですか。何処で何していたんですか。友人や学校にまで音信不通になってまで」
『何処へも行っていませんし、何もしていませんが。』
「……嘘こけ」
『本当です。』
「……マジ?」
『本当です。』
なかなか口の硬い嬢ちゃんじゃないか。返答な一辺倒の女子高校生に会話のキャッチボールを促すためにはどないすればいいのか、例のお尻の人にヘイってな感じで陽気な挨拶がてら聞いてみれば答えをくれたりするのだろうか。いや、でも相手は岸辺織葉、あの万能のお尻の人でも至難だろう。
あれだぞ、一週間だぞ。そのまま彼女の言い分を聞けば、その期間、彼女は何もせず何処へも行かずに過ごしていたことになるじゃないか。
……だったら、なんだ、なんだってんだ。
どうなったら一週間の空白期間を生み出せる道理が成り立つのだ。
「……詳しく聞きたいんやけど」
『とても有益な情報とは思えませんが。』
「……有益かどうかは、僕が決めるから」
『七月十四日、日課を終えて床に就きました。』
『そして、意識を取り戻したのは七月二十一日の九時頃です。』
たったの二行で済まされてしまった報告は、それで今の貴方のトンチキな質問への回答たり得るだろう、との含意があるものだったのだろう。事実として、僕はこの回答だけで納得してしまった。己の思い違いと、岸辺織葉の動向の全てを。
「……つまり、七月十四日から七月二十一日までの間、君は寝たっきりやったんか」
……あぁ、それだと納得だ。
なぜ、初めに思い付かなかったのか不思議なぐらいに。
その回答の裏付けもある。僕の身体の不調だ。朝から妙に身体が重く感じたのは寝過ぎと脱水症状だったのだろう。昼前に倒れたのだって、寝たっきりとはいえ一週間も何も食べてなきゃこうなるってのも道理だ。それにまだある。冷蔵庫の中身、あそこに消費期限切れのパンが一つだったのは、あれは一週間前に買ったパンであったためだろう。次の日の朝食にでもするつもりだったのだろうが、こうなった、というオチだ。
『失念でした。これは、貴方にとっては有益な情報に成り得たのですね。』
「……とても。馬鹿には気付きのあるもんでした」
『貴方は詳しく聞きたいと、そう仰りましたね?』
「……そうですね」
『でしたら、私の身に降りかかった現象を含めて、ここで少しまとめてみませんか?』
――――――――――――
『幽体化現象』『私はこれを、便宜上、そう呼ぶこととします。』
『幽体化とは言いますが、意識的に物への干渉は可能ですし、暑さや寒さの知覚も可能です。扱いは人間の身体とそう差異はありませんので、人が当然にできる程度の移動や操作には支障はないと思われます。』
『唯一、視覚に反応しない、その一点において私は俗に言う幽霊なのでしょう。』
『加えて、貴方とは異なり、私の場合は私のパーソナル情報を忘れる等の症状は見られませんでした。』
『九時以降に私が外出を控えた理由、ですか?指定の制服も共に見当たりませんでしたので、登校しているものと判断しました。従って貴方の帰宅を待ったまでです。むやみな行動はより面倒を複雑化させることを貴方の行動のおかげで身に染みましたから。』
――――――――――――
「……記憶喪失現象」「……入れ替わり現象」
「……僕の周りでは多分、この二つの現象が起こっているんとちゃうかな、と思います」
「……記憶喪失現象は今朝に気付きました。入れ替わり現象もすぐに。もっとも後者は初め僕自身が岸辺織葉だと思えなくって色々とモンモンとしたまま進んで来ましたが、君の存在こそが入れ替わり現象の確実な証左なんやろうな、と思います」
「……そもそも僕も自分を男だと思っていますし」
「……ただ、記憶もないので僕の本来の身体の行方もわかんないです」
「……記憶喪失とは言いますが、僕はパーソナル情報以外のいわゆる当たり前の情報は、どういう経緯でそれを知っているのかは置いておいて頭の中にある、と思います。たぶん。…………最近見聞きしたニュース、と言いますと、時事ニュースみたいなものですか?某国民的アイドルグループが解散した、ってぐらいしか。僕の性格上、あまりニュースとか見ないと思うので。…………あー、それってけっこう最近のニュースだったんですね。さっきコンビニの夕刊に載ってたぐらいの、速報のビックニュース、なんですか。……いやぁ、アイドルとかよくわかんないもんで」
――――――――――――
「……すると、その、君にも現状のびっくりな事態についてはよくわからない、と?」
『人智を超えた事象について、私のような一介の高校生がわかるはずないじゃないですか。』
ど正論やめてください。そりゃ、僕が岸辺織葉の情報を探っていたのはあくまでも自分に関する情報も仕入れられればラッキーって程度に考えていたのだけれども、それで彼女にそこまでの期待や重荷を背負わせるってのは道理じゃない。それにしても役に立たねぇなー、っぺ、なんて一切思っていないし、高慢ちきなくせにデカいのは態度だけか、っぺ、とも思っているはずがない。
しかし、これでまた『僕』の情報を探るためのヒントを考え直さなくてはならなくなった。
どうしたものか、と貧弱な頭を悩ませていたところ、
『ところでなのですが、』
と、頭のいい方の頭はけっこう呑気らしく僕に問うてくる。
『貴方を貴方と呼ぶのは不便です。私のことは「岸辺」でも「岸辺さん」とでも、どうとでも呼べばいいですが、貴方はどう呼ばれたいですか?』
「……なら、まず君のことは岸辺さんとでも呼ぼかな」
『さん付けですか。殊勝な心掛けだとは思いますよ。』
「……さん付けされたくないなら、そう素直に言えばいいのに」
『あと、私に対して敬語はけっこうです。下手な敬語を聞くと頭が痛くなるので。』
「……なら、岸辺さんも敬語やめなさいよ」
『私はこれが素です。お気になさらずに。』
ケッ、イケスカねぇお嬢さんだぜ。ところで僕は今、自分の名前を自分で決めろ、とかいう陽キャになりきれなかった陰キャサークルが汗と涙と無駄な努力を重ねて得た突飛押しもない無理強いコミュニケーションでお馴染みの理不尽な圧を喰らっていたりするのだろうか。やめてくれよ。英国放送協会なんて世界的な報道期間があるってのにBBCを名乗ってしまう放送機関があるぐらいには絶望的なネーミングセンスの成れの果ての我らが淡海人(あみんちゅ)だぜ?
僕が滋賀県民かどうかは知らないが、滋賀県民がどうかは知っている。
奴らのネーミングセンスは、独特だったする。
『要望がないなら『馬鹿』でいいですか?』
「……いいわけなくないですか?」
『なら、馬鹿。貴方に一つ、聞きたいことがあります。』
もう決定らしい。だったら何故聞いたのか。そのはてなマークはあれか、飾りなのか。とりあえず君は早急に国語と倫理と現代社会と心のノートの再履修を強く勧めなければならんだろう。さもなくば彼女から対話から始まる民主主義の概念が軒並み死んでしまう。
……なんて、めくじら立てても仕方ないか。
「……あー、はい。なんですか?」
僕の無防備な反応と後、生徒手帳の自由欄に文字が綴られる。
ただ呆然と文字を追っていた僕。その様子をきっと彼女は見ていて、そして聞いていたのだろう。しかし、僕からは、そんな彼女の姿を一向に拝めることなどなかった。だから、僕は綴られ終わった言葉の真意を図り損ねるのだ。
『ねぇ、馬鹿。貴方はどうしたいですか。』
「…………え?」
あまりにも唐突な問いかけに、僕の思考は停止しかかった。
だって、当然だと思うじゃないか。僕達は共通の認識として、この状況を把握し、打開し、自分の本来の身体やら権利やらを取り戻したい、いつもの平穏無事な日々を取り戻したい。その一心なものだと、そう当たり前のように思っているはずじゃないか。
それなのに、なんだ、その言い草は。
なんで、そんなことを僕に聞くのだ。
……それじゃあ、まるで、
戻りたくない理由でも、あるみたいじゃないか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます