第14話 七月二十一日、午後十二時四十五分。

 授業をサボタージュして頬張る唐揚げ弁当の味は、ほんのちょっと、甘かった気がする。

 結局熱中症の症状だったのだろうか。保健室のベッドの寝心地が良かったこともさることながら、スポドリをガブ飲みしたことも一因なのだろう、ずいぶんと調子が出てきたように思う。ともかく、寝て、食って、また寝たら、だいぶ元気になった。

 で、現在、またちょっとダルくなってきていたりする。

「――――――ともあれ、ともあれ、岸辺、お前の顔色がよくなったようで本当に安心したぞ。教室でぶっ倒れたと聞いた時にはどうしたもんかと冷や汗もんだったからな。で、どうだ、身体の調子は?」

「……ご心配をおかけしました。ありていにいえば、もうちょっと寝ていたい気分です」

「そうか、そうか。寝たいってんなら先生も職務放り出してさっさと帰って寝たいがな」

 そうこうあっての今現在、僕は中年の体育会系男性である担当教諭から直々に生徒指導室へ『お呼び出し』を食らっている最中だ。呼び出しだなんて不良くんか超弩級のお馬鹿さんぐらいしか縁のないものかと思っていたが、僕の知見は狭いらしい。

 ちなみに担当教諭渾身のジョークは敬意を持って鼻で笑っておいた。

「……ゴホン。なんだ、早速で悪いがな岸辺。今日、お前がここに呼ばれた理由はわかるよな?」

「……そりゃ、まぁ、はい。なんとなく」

 十中八九は、ここ一週間も登校していないとは何事かね??、ってところか。

 そんなもの、不良でも馬鹿でも僕でもわかる。もっとも、ここ一週間の『岸辺織葉』の動向なんて僕の方が知りたいんじゃい、な訳だが、愚痴って問題が解決する事例は拗れる事例よりもずっと少ないだろうから、ここは黙っているしかない。

「無断欠席、それも一週間も。お前らしくもないぞ」

「……それはー、そのー、ご心配をお掛けしました」

「……俺はお前の先生だ。欠席期間について、教師として経緯を聞かなきゃならん訳だがな」

 ……いやぁ、しかし、、、なんて。

 担当教諭の言葉尻は次第に弱くなる。

「……うーむ。岸辺、久遠から話は聞いたが、無理はしていないのだろうな?」

「……え、誰ですって?」

「久遠だよ。久遠詩織。同じクラスの。アイツがお前の体調をエラく気遣っていたもんだからな」

「…………あ、あー、はいはい」

「……お前、本当に大丈夫か?……確か教室で倒れたお前の面倒を見ていたのは久遠だったろ。アイツがひどく深刻にお前の容態を語るもんだから俺も俺で気が気じゃなかったんだぞ。まったく、授業のサボりの件も、これじゃ怒れんではないか。がはは!」

 豪胆に歯を見せ笑う担当教諭。不器用ながら僕の体調を案じてくれていたのか。

 ありがとうございます、先生。ほんとう、年度末に何処発なのか半強制的に書かされる謎の式紙に「ありがとうございました」って書く程度にはありがとうって感じです。あれ書く意味とかあんのかな。僕なら秒でゴミ箱に捨てる自信がある。

 さて、そんな瑣末ごとよりも。

 ……久遠さん。久遠詩織さん。

 きっと、あの綺麗な人の名前のことだろう。

 妙に説明口調だったのが地味に気になるが、こんなところで彼女の姓名を知れようとは。僥倖。圧倒的、僥倖。久遠詩織さん。詩織さん。詩織。しおりん。よっしゃ、どれを取っても漏れなく可愛らしい名前になるじゃないか。最高のビュッフェ気分だぜ。

「……で。喫緊の要件でもないんだ。岸辺、今日はもう帰れ」

「……あ、はい。…………はい?」

「……生真面目なお前の事だ。学業に遅れが生じる事は気掛かりだろうが、勉学とは健康な身体と健全な精神あってのも物種だ。はやる気持ちもあるだろうが、今日はしっかり休んで、しっかり食べて、しっかり寝て、また元気な顔を先生に見せてくれ!!」

「…………あー、はい」

 僕の押され気味の「はい」を了承の意思とみるや、満足げに早退手続きを始める担当教諭。

 担当教諭曰く、大袈裟な久遠さんの報告を真に受けての判断だろうが、物事が勝手に進む。

 どうしたものだろう。一週間の空白期間についての弁明をしなくて済むのであればそれに越した事はないのだが、『岸辺織葉』の個人情報を少なからず握っているであろう担当教諭との会話の機会を、こうも安易と失ってしまっていいものなのだろうか。

 僕は今日、今、何の為にここにいるのか、今一度考えなくちゃならんのではないか。

「……あ、あのー、先生?」

「……ん、なんだ、岸辺?」

 担当教諭はまだ白紙の早退届に確認用の印鑑を押すぐらいには僕を帰らせる気満々だ。

 このまま黙々と立ち尽くしていればいずれ直帰させられてしまう。それは、ダメだろう。

 ……なんて、一丁前に危惧感を持って適当な会話での引き伸ばし作戦に移行しようと思ったのだが、先の教室内でもそうだったのだが、対人コミュニケーション能力の乏しさは既に露呈している。僕の会話スキルではものの一分も場を持たせられやしないだろう。

 聞かねばならぬ、離さねばならぬ事がわんさか山積みだと言うことがわかるだけに歯痒い。

「……先生はー、そのー、…………ぼ、……私が休んでいて、心配だったりしました?」

 だ、だめだ。これでは付き合いたてのメンドクサイ彼女だ。

「そりゃ、俺の生徒だからな。めちゃくちゃ心配したぞ!!」

 はっはっはー、と相変わらず体育会系らしい磊落な笑い声。

 文字通りの愚問を笑い飛ばす担当教諭。さて、どういった切り口ならば彼から良い塩梅の応答を得られるだろう。

「……あの、私が言える口ではないのは重々承知なのですが」

 最悪、地雷を踏み抜く恐れを考慮した保険は掛けておいて。

「……その、一週間も音信不通だと親とか呼ばれそうなものですが。……心配で実家に電話していたり、なーんて」

「――――――いいや、ないな」

 と、食い気味にこれを否定する担当教諭。

「……あ、あはは。いやー、こういう場合って保護者に連絡が行くものじゃ」

「――――――いいや、ないな」

 これも、また、僕の口上をぶった斬るように否定してしまう担当教諭。

 ……な、なんなんだ、一体。この対応、変ってもんじゃないぞ。さっきまであれほど意気揚々とした口調だったかと思えば、急に一転して冷め切った物言いに変貌してしまった。この一瞬で、だ。まるで別人の、機械を相手にしているような対応。

「……えっと、先生?……私、何か先生の気に障ることでも――――――」

「――――――いいや、ないな」

「――――――いいや、ないな」

「――――――いいや、ないな」

「――――――いいや、ないな」

「――――――いいや、ないな」

 …………は?

「よーし、書けたぞ、岸辺。早退届だ。さっさと元気になって、明後日の文化祭を大いに楽しめよ!!」

 担当教諭は依然として柔和な笑みを湛えたままだった。ずっと、ずっと、この表情のままだ。どこにでもいる、どこもおかしくない、そんな教師の顔つきだった。初対面と同じ、体育会系にありがちな溌剌とした感情を表に出すような教師の顔つきだ。

 …………やばい。何だこれ。気持ち悪すぎる。

 全ての言動が、全ての挙措が、気持ち悪くて仕方がない。

「ほれ、ここに署名しろ。…………うし、これで完了っと」

「…………どうも」

 ……計画変更だ。さっさと、いち早く、ここから去ろう。

 半ば強引に担当教諭から早退届を奪い取ると足速に僕は生徒指導室から退出した。

 頭も下げず、一目散に退出した。

 あの担当教諭から、

 一秒でも早く、

 一センチでも遠く、

 逃げ果せることしか思考が働かなかった。

「……いやいやいや。……なんだ、あの人」

 静謐な廊下で一人ぼやく。

 他人の性格や人格をどうこうと評価するのはあまり好きではないが、しかし、アレは『正気』ではないと思った。ソリが合わないとか、相性が悪いだとかの次元の話ではない。ちくしょうめ、訳がわからない。その上、特に目ぼしい情報を得られなかったんだから踏んだり蹴ったりだ。

「……いや、実のところ、おかしいのは僕の方なのかな」

 記憶喪失なのだから、その可能性はありよりのありだろう。

 だが、アレが世間の正常運転ならば僕にはもうお手上げだ。

「……はー。もー、かえろー」

 ひたすらな徒労感に襲われながら、僕は早退届を手に下駄箱へ向かった。

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