第3話 七月二十一日、午前六時十五分。
「……いや、いやいや。寝過ぎただけやろ。ほら、記憶喪失とか、あり得ないし」
はは、ははは、と乾いた笑みが口端から零れる。人のマジの笑いってのは爆笑の時だろうと悲嘆に暮れていようとも草なんてもんは生えない。大草原なんて生い茂らない。ただ頭の中でぐらい平和的で晴天の牧歌的な風景でも描きたくはなるってだけらしい。
「……いや、ホンマに。……なんでやねん」
とはいえ、こんな驚天動地のビックリ☆ドッキリ展開にも関わらず若干の冷静さを保つ僕もいる。
もっとも、激動の感情が一周回って不時着しているだけなのだろうが。おかげさまで急に自嘲的になってみたかと思えば、気落ちしそうにもなる。挙句の果てには自分のボケに自分でツッコミを入れる奇行、これを冷静と呼べればの話だろうが。
「……ともかく。一旦、顔でも洗って落ち着こうかな。……えぇっと、洗面所はぁ?」
洗面所、所謂家庭の衛生管理所である訳だが、あいにく僕記憶を失っておりまして。
文机や箪笥の壁側とは逆側に廊下へと続く障子がある。
そろり、そろり、と物音を殺して障子を開けると、そこにはフローリングの床を敷く廊下と、昭和臭い台所があった。どちらも還暦過ぎの歴戦の様相を漂わせており、労ってやるべきか、瓦解する前に蜘蛛の子散らすように退散すべきか悩みどころだった。
「……誰かー。……いませんかー?」
居たら居たで恐怖なのだが、居ないと居ないで困る。居ない場合、とうとうこの部屋の所在が不明となり「ここは何処?」問題は暫くお蔵入りしそうなのである。しかし、呼び掛けに対する反応は一向に無い。
なるほど、これはお蔵入り確定かもしれない。
「……おい、それだと「僕は誰?」問題も一緒にお蔵入りしちゃうでしょうが」
それはもう死活問題なのだけれども。いや、現在住所不明も相当なのだが。両問題とも、現状維持はとーっても困る。何がと聞かれればちょっと考え込んだ挙句、いやこれヤバいくらい困るやんけ、ってなるくらいには困る。つまり、非常に、困るのである。
「……んー、玄関ドアが一つ。他のドアが二つ。……んー?」
廊下の先、右手前に一つ、あと蓮向かいも一つ。その奥っ側に玄関ドアもあるにはあるが、今現在の情報のみで下界に足を踏み入れるはちょっと洒落にならないレベルで怖い。よって断念。仕方がないね。また後回しとすることとしよう。
「……じゃあ、こっちから」
ひとまず、手前のドアノブを捻る。
「…………おー、ビンゴかな?」
そこには洗顔にはおあつらえ向きの洗面器に、タオルの掛かった姿見鏡。すぐ側にトイレと浴槽のユニットバスがある。なるほど、するとここは洗面所兼、脱衣所でもあるのだろう。とりあえず差し迫った用もない風呂場は後回しにして目的の洗面所の前に立つ。珍しいもんで洗面鏡がない。そのための姿見鏡だろうが、格安賃貸だろうアパートでもアパートの矜持として鏡ぐらい設置しておいて欲しいものだった。
――――――鉄色の取っ手を右に回す。
――――――蛇口から水道水が溢れる。
――――――掌で掬い、顔に浴びせる。
ひどくジメッとした空間だったからか、妙に肌に湿りつく暑さがあった。おそらく空間の構造上、換気なんてまるでなっちゃいないのだろう。一つ二つ不運ってもんが重なれば。この熱波で人を殺せるかもしれない。
「……縁起でもないことを。あー、やめやめ。考えるの中止」
そんなことよりも、蛇口より出てくるこの水のヌルさたるや。
ついつい冷水かと期待したものだから、ガッカリ感が計り知れないじゃないか。この落胆、何処の誰にぶつけてやれば良いのやら。そういえば丁度さっきいい感じの完全密室犯罪を可能にさせる洗面所を見つけたところだ。現場は整っているのかもしれない。いつやるの、今でしょ。
…………などと、物騒な思案に耽るも程なくして、顔と共に口の中も水道水で漱ぎ終わる。
「……あー、おいしー。…………あっ、しまった、手拭いがないやんか」
手探りに手拭いの在処を探るが、しかし、どうやら手近の場所にはないようだ。
これでは埒が明かないと思い切って捜索範囲を広げるべく諸手を大振りに振ってみる。すると、指先に触り慣れない感触を覚える。ツルツルとした、しかし絶妙に触り心地の悪い平面のようだった。
「……なんやこれ。…………あぁ、あれか、たぶん『鏡』や」
洗面器にばかり気を取られていたが、思えば洗面器の隣に姿見鏡もあった。
それに、その姿見鏡に確か手拭いが掛けてあった気がするのだが。どうだ。
「…………おっ、あった、あった。……いやぁ、僕、記憶力ええなー」
丁度いいサイズの手拭いだ。濡れた顔を拭くにもってこいのサイズ。
いやはや、ほんと、素晴らしい記憶力を持っているようで。
「……あとは名前と住所と経歴と人間関係諸々を思い出すだけ。勝ったな、がはは」
ジリジリと蒸される夏の殺人的猛暑の中、我ながら最高に面白くない冗談だと思った。
さて、この肌よりも臓器に猛威を振るう暑さの密室空間にて、それでも僕はこのように呑気な自分を演じられていたのは偏に現実からの逃避能力に長けていただけに過ぎない。それは決して、僕が強いことの証左にはなり得ない。
だからと言うべきか、ゆめゆめ履き違えちゃならんのだ。
これから始まる物語は、『僕』の葛藤に終始することを。
一通り一式顔も拭き終え、手拭いを首から掛ける。
さて、閑話休題、おふざけも大概にしておいて、僕はそろそろ『僕』の人物像について思い出す努力をせねばならないのだろう。下手をすれば病院案件、なんだったら警察案件なのかもしれない。慎重に、冷静に、状況を見極めなければならんのだ。
「……何はともあれ、ひとまず思考もサッパリしたんや」
――――――目線を洗面器から外す。
「……そろそろちゃんと、この事態についてまとめておかないと大変なことに――――――」
――――――目線が姿見鏡に向かう。
――――――目線と目線が合致する。
「…………は?」
それはもう、不意、その一言に尽きた。
ダラダラと惰性のままに流し続けた汗の跡か、もしくは先の手探りの際に飛散した水滴の跡か。その正体こそわからなかったが、その時たまたま視界に入った等身大の姿見鏡には何本かの水跡の筋が通っていた。しかし、あれだ、そんな水跡の正体なんてものはこの際、心底どうだっていいのだ。
……問題なのは、その跡の付着した『姿見鏡』の方にあるのだから。
もっといえば、そう、その姿見鏡の写し出す『僕』にあるのだから。
「…………諸兄よ、問いたい、少女の皮を被ったことはあるかね?」
ただ茫然自失と呟く僕、そして同じ動作で柔らかそうな唇を動かす『彼女』。
姿見鏡には、『僕』が映し出されるべき姿見鏡には、
肩を窄める『少女』の姿がハッキリと写し出されていた。
結論から言おう。僕は記憶を失うと同時期に、身体も失っていたらしい。
とはいえ、性自認が雄であると言うことも僕のある種の思い込みなのかもしれない。
それでも、僕は、とうとう『僕』のことさえも見失ってしまった事に変わりはない。
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