第2話 七月二十一日、午前六時五分。
それは、永い、永い、永い悪夢から目が醒めたような、そんな気分だった。
瞼を焦がす紅の光。ふと見やれば、それは安っぽいカーテンから透き通る陽光であり、これから始まるひたすらに永い一日を示唆していた。
「……あー、朝やんけ。……まぶし」
くっそ喧しい蝉の大合唱。赤子と蝉はなき叫ぶことが仕事だろうが、仕事というからには地域住民への配慮というか、丁寧な対応を申し付けたいところだ。
「……あぁ、いかんな。寝惚けてる」
いやに思考が空回る。まるで徹夜明けの朝だ。身体のペース配分も壊れている。
テンションの起伏が荒い。無意識に気分が囃し立てられる。興奮状態というか。
「……なんやこれ、熱中症の症状かな。……あぁ、頭痛い。身体重い。……すっごい陰鬱な夢を見せられていたんか気分も晴れへんし、全体的に調子が悪すぎる。あー、つらい。つらいよー」
あぁ、やっぱり変にテンションが高い。
精神的なコンディションもさることながら身体の方も深刻そうだ。大量の汗に、ボサボサの髪、胸元はジメジメと、この状況を名状しきれるほどの僕は僕の身体事情に詳しくないが、たぶん、とびっきり悪いのではないかと思う。
「……ひとまず、起きようかな」
律儀にまで整って肩まで掛かる掛け布団を剥がす。
ボーッとする頭でも寝返りの跡すらないのは疑問に思ったが、寝惚け頭には些事であった。
「……まー、ええか。……おはよう、ぐっともーにんぐ、世界」
そしてしーゆーあげいん、お布団さん。また夜中に会おうぜ。
「……あれ……いや……僕、お布団で寝起きしていたっけかな」
いやいや、実際問題、このお布団から起床したではないか。何を言っているのだ、このお口は。
しかし、払拭しきれないモヤ。違和感と呼ぶには掴み所がないけれども、まるで奥歯に挟まった刻みネギのような、そんな致命的にウザい程度の違和感が心中をぐるぐる回るのだ。
「……ベッド、ちゃうかったかなぁ?」
……まぁ、いいだろう。これも些事だ。
僕がお布団に包まっていようが、
はたまたベッドを愛用しようが、
僕がこれからすべきは顔を濯ぎ、
寝惚けた脳みそに刺激を与えてやることだ。
さもなくば、ずっと正常な思考力を取り戻せそうにない。ならば、取るべき行動はそう多くないはずだ。
「……つべこべ悩む前に、さっさと起きよーっと」
グーッと背筋を伸ばし、血流をグングン体内に巡らせる。
しかし、同時に、ドッと押し寄せる倦怠感が身体を襲う。
まるで、手足から身体が腐っているかのように重苦しい。
「……思っている以上に重症なんかな。…………きっついなぁ」
いやはや、体調不良とは面倒他ならない。体調不良はそのまま頭の回転も鈍化させる忌むべき事態なのだから。それにパジャマも絞れば滴り落ちそうなほど汗を吸っている。症状としちゃ軽度なのだろうが、甘くみちゃならんだろう。
ともかく、今の寝ぼけ眼の僕には正しい物の判断が付かない。
スンッと香る畳特有の干し草の薫りを鼻腔に残し、裸足の足の裏でささくれを踏む。
どうやら、ここは和室の一室らしい。
…………いや、待て。ちょっと待て。
「……畳やん。…………あんれ、畳ぃ??」
試しにもう二、三度ペタペタとささくれの感触を確かめる。
畳職人などではない僕だが、一般常識としてこの感触が畳であることぐらいわかる。
よく観察すれば、四隅に丸い画鋲が刺されているようだ。カーペット状の畳らしい。
「……らしい。……いや、らしい、ってなんやねん」
これにはさしもの寝起きの僕でも僕の言動に小首を傾げざるを得ない。
僕は和室で寝起きしていただろうか。いや、そもそも、僕はこの和室に見覚えがあっただろうか。
なんだ、なんだ、この状況は。訳がわからない。
疑念は疑念を呼び、混乱はさらなる混迷を呼ぶ。
そして疑念や混乱は次第に膨れ上がるばかりの『違和感』へと行き着き心中の安寧を遮る。そんな胸の奥を埋め尽くさんかぎりの『違和感』であるが、やがて不安や焦燥といった冷静さを欠くようになっていき、ただ一つの噛み合わない『事実』を探り出す。
「……いや、待って。ここ、本当に何処や?」
改まって、僕の周り一面を見回す。しかし、驚くべきか、呆れるべきか、この和室内の全て、物品に至るまで心当たりがまるでない。
すべて、すべて、すべて、僕の知らない何処かの誰かの部屋だった。
広さは四畳半ってところだろうか。とはいえ、官能的な響きも神話が始まりそうな予感も湧かない。箪笥に文机に本棚に丸机、そんな人間らしさの最低限度のような家具の配置の和室部屋である。障子の向こう側には廊下でも続いているのだろうか。
狼狽する感情を押さえつけんと、ひとまず布団を折り畳み、窓際へ置く。
「……窓や。…………あっ、そうやん、窓や!」
一目散にカーテンを乱雑に引っ張り、一呼吸も置かずに窓を全開させる。
サッと入り込む風が髪を撫でるが、間も無くしてその風も凪いでしまった。
「……どの辺や。……ほんまに、何処や、ここ」
こんなことなら意義もなかったろう日がな一日、グーグルアース先生を読み込むことを趣味としておくべきだったか。なんて下らない小言をほざいても本当に詮方ないのわけだが。指で数えられる情報を精査し、現在場所の特定に勤しむ。
……ここは、アパートの一室の二階部屋なのだろう。景色が広く見渡せる。
……あっちの方には有名チェーンのコンビニやレストラン、スーパーかな。
……あとは奥の方の景色を侵食する川か。いや、あのサイズ感だと湖、か。
月極駐車場の看板をジーっと覗くと『大津市……』の文言が見えた。すると、ここは滋賀県なのだろうか。滋賀県の県庁所在地、大津市、その何処ら辺か。なるほど、すると、あそこの無駄にデカい水溜りは琵琶湖ってわけか。
……………なるほど。なるほど。なるほど?
「……いや、だから結局のところ、この部屋は何処?」
凡庸で凡俗で凡夫な僕の簡単な推測では窓辺の景色よりアパートの二階の一室なのだろう。木造の古い外装が室内のどうしようもなさと釣り合っている。消防法なんて知らないが、きっと違法と違反の温床だったりするのだろうオンボロ具合。
「……誰か、友人宅にでもお世話になっていたのかな?」
言葉尻の疑問符は消えそうにない。
この回答に僕自身が納得していない。
相当にはやる気持ちを抑えつけんがため、頭のこめかみにグリグリ指の関節を押し込めるのだが、ぐりぐり強度が高すぎて「イッテ」と呻く程度には馬鹿みたいに焦燥しているらしい。それでもグリグリがやめられないぐらいには阿呆みたいに追い詰められているらしい。
「……くそみたいなことやってないで、思いだせー、思いだせーっ」
だが、そんな願いも虚しく。否、むしろ悲惨にも、
冷や汗ものの事実を、混乱から拾い上げてしまう。
「……あれ、友人。…………そんなもの、僕にいたっけか」
こんな友人に関する疑問なんて、思春期に悩める男子中学生の青春目録の一節以外でお目にかかりたくなどなかった。もしこれがそんな中学生のお悩みメール文章の復唱であれば、もしそれが深夜ラジオに届いた手紙を意気揚々なパーソナリティが読み上げていた代物であれば、僕はどれほど腹を抱えて笑ってやっていただろうに。
淡く脆い青の春の軌跡に涙の跡が残ったであろう事柄、
そんな類の話であれば僕はどれほど気が楽だったろう。
「……友人どころじゃない。…………あれ、なんでや?」
参ったな、声が震えているじゃないか。次第に冴えてくる思考は当然の働きの如く、当該『違和感』について言語化を進めていこうとする。そのたび、『違和感』の正体が混迷と混沌を極めていく様が浮かび上がってきてしまう。
これが、青春を語る一ページでないことが如実に現れてくる。
「……僕の家、何処やっけ?」
「……あれ、僕の実家って?」
「……生まれた場所は?」
「……そこで出会っているはずの友人は?」
「……ここまで生きてきた経歴や学歴は?」
「…………そもそも、僕の名前は?」
…………あは、あはははは。
人間って生き物は、苦境の崖っぷちに立たされると笑いが込み上げるらしい。
「…………いや、嘘やん。……誰やねん、僕」
これは、あれか。映画でよくある台詞だ。
「…………なーんも、憶えていない。本当に、なんも」
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