助けたい命

 診察は意外なほど早く終わった。タカノメさんは再び眼帯をはめてこちらに戻ってきた。防護具を外して現れた表情は先ほどよりも暗く見える。


「どうだった」

「うむ。やはりウイルスだ。コロリウイルス、媒介する魔族には発病しない忌々しい病原体だ」

「そうか。だけど空気感染の恐れがないのは不幸中の幸いだったね」


 何を話しているのかボクにはわからなかった。ウイルス、聞いたことがない。講義でもそんな単語は一度も聞いていない。


「待ってください。ウイルスって何ですか。細菌の一種ですか」

「細菌よりもさらに小さい微生物さ。いや、生物と言えるのかどうかも怪しいね。それ単体ではエネルギー生産もしないし増殖能力もないんだから」

「そんな微生物知りません。どうして講義で教えてくれなかったんですか。細菌と同じくらい重要じゃないですか」

「教える必要がないからだ」


 まるでボクの疑問を抑え付けようとするかのように、タカノメさんの低い声が頭上で響いた。


「ウイルスに打ち勝つ方法はいまだに発見されていない。どんな秘薬もどんな治癒魔法もどんな回復術も、ウイルスの脅威から患者を救うことはできない。だから教えぬのだ。決して勝てない敵の存在を教えたところで何の意味もない。それはただ絶望を与えるだけだからだ。ウイルスの知識があるのはごく一部の者に過ぎない。君の試験官ももちろん知らなかったはずだ」

「打ち勝つ方法が、ない……」

「だからといってウイルスによる病気が全て不治なわけではない。生物には自己防衛システムが備わっている。感染者自身の力でウイルスを撃退できれば治癒できる」

「じゃあ、フェイは助かるんですね」


 タカノメさんからの答えはなかった。代わりにアルピニイさんがボクに言った。


「あの娘に取りついたのはコロリウイルス。魔族の血液や糞尿に好んで生息し、あたしたちの血管や消化器官に侵入すると発病する。潜伏期間は人族なら数日、エルフならその十倍。発病した場合の致死率は百%。これまで発病して助かった例はひとつもない」


 尻の穴から力が抜けた。まるで夢の中にいるような気がした。これは現実ではない、そうとしか思えなかった。ボクはタカノメさんにしがみついた。


「治してください。あなたは見えるだけでなくそれが何かまでわかるんです。だったら治せないはずがないでしょう」

「メルドやめな。言っただろ、治療法はないんだよ」

「お願いです。フェイを治してください。お願いです。お願いです」


 タカノメさんの両手がボクをゆっくり引き離した。そして長い足を折り曲げてしゃがみ込むとまっすぐにボクを見た。


「我々の力不足を許してくれ。熱を下げ、痛みを和らげ、体力を維持するよう努める、それくらいしかできぬのだ。あの子の運命は女神に委ねられた。あとはもう祈るしかない」

「女神様に……」

「アルピニイ、私はもう行く。それから会わせたい者がいればすぐ呼びよせてやれ。今晩が山だ」

「わかった。玄関まで送るよ。メルド、感染の心配はない。あの娘のそばにいてやりな」


 二人は集中治療室を出ていく。ボクは透明な仕切り板を越えてベッドに近寄った。途切れそうな弱々しい息、紅潮した頬、にじみ出る汗。フェイは今たったひとりで戦っている。なのにボクは参戦することさえできない。こうしてただ無力に見守ることしかできない。


「フェイ……」


 手に触れた。大理石のように冷たい手。せめてこの手だけでも温もりを取り戻してほしい。ボクは両手でしっかりとフェイの手を包み込んだ。


「メ、メルド……」


 いつもの声が聞こえた。うっすらと目を開けている。これは奇跡か。しっかりとフェイの手を握り締める。


「気がついたんだね、フェイ」

「ああ、よかった。本採用試験に、合格したのね」


 うわごとのような言葉。すでに正常な判断力も思考力も失っているのだ。


「そ、そうだよ。これで正式にらぼの一員だ。何もかもフェイのおかげだ。ありがとう」

「よかった。本当によかった。子どもたちも、らぼに行きたがっているの。きっとあなたに続いて、たくさんの子どもたちが、らぼで働き始めるでしょう。これからは孤児院ではなくらぼで、みんなの面倒を見てあげて」

「うん、わかった。だからフェイも早く元気になって前みたいに」

「あたしも、メルドと一緒に、らぼで、働きたかった……」

「フェイ、フェイ!」


 目が閉じられた。弱々しかった呼吸が消えた。名状しがたい感情がボクを襲った。女神様、女神シリアナ様。これまでずっとあなたを信じ、あなたを敬ってきました。それなのにどうしてこんな過酷な運命ばかりをボクに与えるのですか。母を父を妹を奪い、今またフェイまで奪うのですか。シリアナ様、答えてください。それともまだボクの祈りが足りないのですか。


「ウイルス、コロリウイルス、許せない」


 悲しみが憎しみに変わるのを感じた。全ての意識が両眼に集中する。視界が変わる。見えてくる無数の微細な輝点、この輝点がフェイを奪ったんだ。許せない、絶対に許せない。尻の穴が熱い。焼けるように熱い。


「消えろ! フェイの体から消え失せろ!」


 尻の穴の熱が逆流した。腸内をうねりながら駆け上ってくる。体内の全てが燃えるように熱い。胃が膨張する。


「はああああー!」


 たまらず吐き出した。それは火竜の吹く炎のように赤い光を発する輝点の集合体だった。まるで意識を持っているかのようにフェイの体を包み込む。


「メルド、あんた何をしているんだい!」


 聞こえてきたアルピニイさんの声は水中に響く物音みたいに遠くぼやけていた。フェイの体を包み込んだ輝点の集合体は染み込むように吸収されていく。それにつれてフェイの全身を蝕んでいた輝点が消滅していく。


「よかった……」


 尻の穴がゆるんだ。体がだるい。全ての生命力を尻の穴に吸い取られた、そんな気がした。ボクの体はゆっくりと床に崩れ落ちた。


「メルド、しっかりしな。おい、メルド、メルド……」


 アルピニイさんの声が遠ざかる。もう何も聞こえない。ボクの意識は穏やかな闇の中へ沈んでいった。


 * * *


 目が覚めたらベッドの上に寝かされていた。ニィアォさんが「メルドおー」と叫びながら抱きついてきた。ボクは二日間眠り続けていたらしい。


「そうですか、フェイは無事ですか。よかった」


 ボクが気を失った後、アルピニイさんが回復魔法をかけまくってフェイを死の淵から助け出したそうだ。今は一般病室に移っている。


「しかしタカノメ先生の力はたいしたもんだな。東の森では一人も治らなかったって言うんだから」


 フェイを治療したのはタカノメさんということになっていた。あの状況下ではそう思うのも仕方がない。みんなウイルスの存在を知らないのだから。


「もう感謝感激! あなたはあたしの命の恩人よ、メルドちゃん」

「メルドさん、先般の失礼な物言い、許してください。体調が良くなり次第いつでも研修に復帰できます。本採用試験、頑張ってください」


 うんこ小路うじさんと試験官のプさんにはウイルスの存在を教えたそうだ。そうでもしなければうんこ小路うじさんの怒りを解くことはできなかっただろうから。ただフェイの病気に関しては話さないことにしたようだ。治療したのはあくまでもタカノメさんであってボクではないのだ。


「初めて見た時からわかっていたのよ。メルドちゃんがとんでもない大人物だってことはね。あなたを悪く言う者がいたらあたしが懲らしめてやるからいつでも言ってね」


 ボクを懲罰房にぶち込んだ張本人であるうんこ小路うじさんの手のひら返しは見事なものだった。これほど臆面もなく開き直られると怒る気にもなれない。でも素直に自分の非を認めたのだから根はいい人なのだろう。

 それに退院祝いとして孤児院の子どもたちと一緒に屋敷へ招待してくれた。初めて見る王都内壁の内側。贅を尽くした豪邸の内装や調度品。見たこともないご馳走。子どもたちは大喜びだった。


「メルドちゃんは十日間滞在してちょうだいね。だって牢屋の中に十日間も閉じ込められていたんでしょう。そのお・わ・び」


 らぼの上層部でさえ断れないうんこ小路うじさんの要請をボクが断れるわけがない。十日間、ボクは従二位華族様の大豪邸で、朝昼晩の三食におやつと夜食を追加した一日五食の優雅な生活を満喫させてもらった。

 腹がはち切れるほど大量の山海の珍味。心までとろかすようなスイーツ。頭に突き抜けるほど刺激的なドリンク。おかげで屋敷にいる間はこれまで見たこともないような図太く長大なウンコを毎朝捻り出すことができた。


「女神シリアナ様。今日もこのような素晴らしいウンコをお恵みくださり感謝の念に堪えません。これほど幸福な時はかつてありませんでした。明日もより図太いウンコを、より大きな幸福をお与えください」


 ウンコが太くなるほど幸福は大きくなる、尻穴教の教えのひとつだ。確かにそれは真実である。しかしたとえ粗末なウンコであってもそれが不幸であるとは言えない。なぜならひとりのウンコは細く短くても、それがたくさん集まれば太く長いウンコになるからだ。そしてその時、ウンコを出した全ての者に大きな幸福が訪れるのだ。みんなのウンコを集めるふんにょーらぼならばそんな幸福を必ず実現できるはず。これからも惜しみなくウンコを出し切って努力していこう。あすほー!


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