健康な尿は無菌なのです

 衝撃的なうんこ小路うじさんの言葉をそのまま鵜呑みにはできなかった。シスターたちが認めるはずがないし、ましてやフェイが自分のオシッコを誰かに飲ませようとするはずがない。華族であることを笠に着て無理強いさせるつもりなのかもしれない。


「その子は自分の尿が飲まれることを了承したんですか」

「ううん、拒否されたわ。そりゃそうよね。恥ずかしいもん」

「それなら飲むのは無理ですね。諦めてください」

「メルドさん、その言い方は失礼ですよ」


 プさんに注意されてしまった。でもうんこ小路うじさんは何とも思ってないみたいだ。


「いいのよ。友達みたいに話してもらって構わないわよ。もちろんこっちだって何の見返りもなしに飲ませてもらおうなんて思ってなかったわ。で、条件を出したの。飲ませてくれたら何でも願いを叶えてあげるって。そしたらようやく了承してくれたわ」

「願い? その子はどんな願いを言ったんですか」


 プさんの眉がピクリと動いた。しかし何も言わなかった。うんこ小路うじさんはにっこりと笑った。


「あなたよメルドちゃん。あなたを正式にらぼに採用してくれるなら飲ませてあげてもいいってその子は言ったの」


 言葉を失った。ボクのために、そんな願いのために自分のオシッコを差し出すなんて……。


「院長先生は反対しなかったのですか」

「したわよ。でもね、その子の意思があんまり固いものだから孤児院から連れ出さないことを条件に認めてくれたの」


 ああ、フェイ。そんなにボクのことを思っていてくれたのか。感動で尻の穴が熱くなってきた。


「そこで考え出したのが今回の試験なのですよ」


 ようやくプさんも説明する気になったようだ。


うんこ小路うじさんに推薦状を書いてもらえばほぼ間違いなくらぼに入れます。しかしあまりに無能な者を採用したとあってはらぼの名に傷がつきます。合格に値する人物かどうか、それを見極めるために今回の試験を企画したというわけです」

「あら合格するに決まってるでしょ。だって細菌が見えるんですもん」

「それはまだわかりません。優れた技量の持ち主であっても人間性に問題があれば落ちます」


 やりきれない思いでいっぱいになった。フェイの気持ちは嬉しいが自分の誇りを傷つけられたような気がした。こんな手段でらぼに入っても素直に喜べない。


「メルド、そう腐るな」


 ニィアォさんがボクの肩に手をのせた。


「フェイだって悪気があったわけじゃない。おまえのためを思ってのことだ。それに試験は正式に行われるんだ。推薦状が要らないくらいの結果を出して、おまえがいかに優秀で立派な人材か試験官に見せつけてやればいい」

「そうですよメルドさん。今のうんこ小路うじさんの言葉は全て忘れて試験に臨んでください」

「はい。わかりました」


 そうだ。これはフェイが作ってくれた大チャンスなんだ。これを乗り切ればボクの正式採用は決まったも同然だ。よし頑張ろう。


「ようこそおいでくださいました。応接室へどうぞ」


 ボクらを迎えてくれた院長先生はかなり緊張していた。従二位の華族が来るとは聞いていなかったのだろう。子どもたちの声は聞こえなかった。フェイ以外は全員孤児院の外に連れ出されているようだ。


「では説明した通りにお願いします。くどいようですが採尿時には念入りに両手を消毒し、さらに手袋とマスクの着用をお願いします。容器はこちらを使ってください」


 採尿容器が密閉された袋を手渡すプさん。院長先生は宝物でも扱うかのように両手で受け取った。


「それでは用意ができしだいお持ちいたします。しばらくお待ちください」

「取り終わったらすぐ持って来てねー。鮮度が命なんだからー」

「承知しました」


 言葉通り院長先生はすぐ戻ってきた。フェイは尿意を我慢して待っていたのだろう。


「どうぞ」


 テーブルに置かれた透明の容器は淡黄色の液体で満たされていた。プさんが蓋を開ける。ほとんど刺激臭のない芳香性の香り。これがフェイのオシッコ……意識しただけで恥ずかしくなる。尻の穴がむず痒くなってきた。院長先生は用が終わるとすぐ出て行った。


「さあ、ここからが試験です。メルドさん、細菌の状態を確認してください」

「はい」


 大きく深呼吸して意識を両眼に集中する。視界が変わる。フェイのオシッコしか見えなくなる。輝点は見当たらない……いや、わずかだが輝点がある。空気中や皮膚に常在する細菌が混入したのだろう。だがこれだけ微量ならば危険性はまったくない。


「ほぼ無菌と言ってよい状態です。飲んでも差し支えないと思われます」

「はい、ご苦労さま。じゃ飲むわよ」


 うんこ小路うじさんが容器に手を伸ばした。が、プさんが素早くそれを制した。


「もう一度よく見てください。本当に危険性は存在しませんか。健康な尿は無菌である、その常識に囚われることなくしっかり観察してください」


 プさんの口調がこれまでになく真剣だ。何かしくじったのだろうか。ニィアォさんは口を押えて心配そうにこちらを見ている。


「わかりました。もう一度見てみます」


 再び両眼に意識を集中させる。やはり輝点は見えない、見えない、どこにも輝点は……いや、待て、


(あれは、何だ)


 輝点というには弱々し過ぎる輝きがあった。ぼんやりした光を放つ緑色の小さな灯火。そうか、これか。


「多数の細菌が塊となって容器の底に存在しています」

「それはどのようなものですか」


 プさんが紙を広げた。色の違う細菌輝点が五つ描かれている。迷わず緑色の輝点を指差した。


「はい。それでその細菌の正体は何だと思いますか」

「尿由来の細菌とは思えません。この容器にあらかじめ付着していた雑菌ではないでしょうか。量は多いもののほぼ死滅しているので危険性はありません。」


 プさんの顔に笑みが受かんだ。ボクの尻の穴も緩んだ。どうやらうまく乗り切れたようだ。


「素晴らしいですね、メルドさん。あなたにはこのような試験は必要なかったようです」

「ありがとうございます」


 何より嬉しい褒め言葉だ。だがボクにはまだ気になることがあった。尿の入った容器から不吉な気配を感じるのだ。


「ねえ、もう飲んでもいいの?」

「はい、試験は終了しました。雑菌に危険性はありません。ゆっくり味わってください」

「うふふ、この時をどれだけ待ったことか。いただきます」


 うんこ小路うじさんの手が容器に伸びる。ボクの手がそれを制した。


「あら、どうしたの、メルドちゃん」

「おかしいんです。この尿、危険な気配がするんです」

「でもほぼ無菌なんでしょ。危険なはずないじゃない」

「そうなんですけど、でも」


 両眼に意識を集中させる。より強く、より深く。尻穴が熱くなる。視界がぼやける。尿の中へ意識が入っていく。見えた。小さな輝点。細菌が巨大な岩に見えるほど極微小な輝点。その輝きはボクを不安にさせた。体内に入れてはいけない、そう警告していた。


「これを飲んではいけません。危険です」

「あんたさっきから何を言っているのよ。プさん、何とかしてよ」

「どうしたのですかメルドさん。あなた自身、飲んでも問題ないと言ったではありませんか」

「確かに言いました。でも見えるんです、別の輝点が。不吉な気持ちにさせる輝点が。お願いです。飲まないでください」

「もう、うるさいわね。飲むって言ったら飲むのよ」


 強引に容器をつかみ取るうんこ小路うじさん。ボクの手がその手を払い飛ばした。


「あっ!」


 払った手から吹っ飛ぶ容器、宙を舞い、逆さまになった容器の尿はテーブルに雫を飛ばし、うんこ小路うじさんの服を濡らし、床に落ちて水たまりになった。静寂に包まれる応接室。うんこ小路うじさんの叫び。


「はうあああー! な、なんてことをしてくれたの。せっかくの最上級の尿を、ああ、もう信じらんない」

うんこ小路うじ様、また明日出直してはいかがですか」

「言ったでしょう。今日が最後のチャンスなのよ。明日は五十才の誕生日なんだから」

「では、尿が出るまで待っていればいかがですか」

「そんな暇があるわけないでしょう。今日だって過密スケジュールをやりくりしてようやく作った空き時間なのよ。ああ、もう時間がないわ。帰らなくっちゃ。クー悔しい」


 ボクは黙って俯いていた。自分の仕出かしたことがまだ信じられなかった。


「ちょっとあんた。この落とし前はきっちりつけさせてもらうわよ。二度とらぼで働けないようにしてやる」


 ドスの利いた声を残してうんこ小路うじさんは応接室を出て行った。プさんは床に落ちた容器を拾い上げた。眉間の皺が三本に増えている。


「失望しましたよ、メルドさん。このような方だったとはね。能力の高さは認めますがあなたの素行を考慮すると今回の試験は不合格と判断せざるを得ません。それから華族の方に暴力を振るったのですから何らかの懲罰が科せられるはずです。覚悟しておいてください」


 プさんも部屋を出て行った。しばらくして馬車の遠ざかる音が聞こえてきた。収集作業の制服を着用している者は勤務時間中に限り公共交通機関を利用できないという不文律がある。どうやら歩いてらぼまで帰らなければならないようだ。


「そう気を落とすな、メルド」


 応接室では無言を貫いていたニィアォさんがようやく口を開いた。


「おまえの気持ちはわかる。あの子のオシッコを飲ませるのが嫌だったんだろう。男なら誰だってそうさ。オレだって女房のオシッコを他の男に飲ませるのは嫌だ」

「違うんです。本当に見えたんです。あのオシッコは絶対に飲んじゃいけないものだったんです」

「ああ、そうだな。おまえがそう言うんならそうなんだろう。オレはおまえを信じるよ。他のヤツらが何と言おうとな」


 いつも口の悪いニィアォさんの言葉とは思えなかった。髭もじゃの強面こわもての裏にこんな優しさを秘めていたなんて。


「さあ帰ろう。帰って食堂のうまいメシを食おう。そうすりゃ元気が出るさ」

「でも馬車が」

「今から歩き始めれば途中でらぼの馬車に遭うだろう。そしたら乗せてもらえばいい。糞尿臭い樽の横になら乗せてくれるさ」

「はい」


 少し元気が出てきた。やはりニィアォさんが指導官でよかった。

 ボクらは院長先生に挨拶して孤児院を出ると北門目指して歩き始めた。

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