第15Q 糧に
帰宅後。玄関先で「ただいま」と言えば、「おかえり」と聞き慣れた少し高い声と低い声が重なるが、その声の主たちが父と母だと知っている。靴を脱いでいると、ドアを開けて俺の立っている玄関の方に顔を覗かせる母がいた。その顔の表情は、迎え入れるための歓迎しているような嬉しそうな顔ではなく、変わることのない真顔である。まあ母のこの表情はデフォルトではあるのだが、友人を家に呼んだり、授業参観などの学校行事に母が学校に来ると「あぁー……」と母と俺を交互に見て、戸惑いながら納得する人が多い。顔のパーツや雰囲気が似ているのだろう。だが、そんなに俺は表情が変わらないのだろうか?
「もうご飯できてるから、手洗いうがい終わったらすぐ降りてきなさい」
「はーい」
そんなことを考えていると、気の抜けた返事になるが、いつものように行うやりとり。
階段を上り、2階にある自分の部屋へ足を踏み入れる。身に着けていた学ランを、皺にならぬようにハンガーにかけた。着ていた上下長袖ジャージと汗が少し染み込んだTシャツとバスケパンツを部活用鞄から取り出す。独特なすっぱい臭いが部屋に漂う気がした。さっといつものジャージに着替え終えたのち、すぐ1階にある洗濯カゴへ入れるためにドタドタと煩い音を立てるまではいかないが急いで脱衣所に向かう。
そして洗濯物を洗濯カゴに入れるという使命を果たした俺は、台所に繋がるドアを開ける。そこには使い終わったであろう鍋を洗う母と家族3人分のご飯をよそう父の姿があった。母はこちらを見向きもせず、鍋を食器拭きのタオルで拭きながら「洗濯物入れたの?」と聞くので、「入れた」と簡潔に俺は答える。それを聞いた母は、「そう、ならいいや」と言った後に拭き終わった鍋をいつもの棚に入れる。その際に他の鍋と当たり、少し鈍い音が立つ。
俺に気づいた父が顔を上げて俺に「おかえり」と言う。俺も「ただいま」とお互いに言い終える。そのあと黙々と作業をする父に「手伝う」と俺は口にするが「もう終わりだから、座ってなさい」と言われ、渋々とはいかないが大人しくいつも座る定位置まで歩く。すると、父が聞いてくる。
「明日試合でるのか?」
「……出ないよ」
「そうか」
表情は変わらずとも、血縁関係であり長年一緒にいるから分かる少し残念そうな声色だ。
父は白髪が増えてきているとはいえいつも仕事を行くときにはワックスを付けて、ピッチリと7:3分けで固めている。そして白いワイシャツ、ネクタイとスーツ。しっかり者のように見える、そんな恰好だ。しっかり者という印象を受ける父だが、表情はあまり変わらずとも声のトーンで喜怒哀楽が結構はっきり分かるぐらいには表情豊か(?)だ。
「……まあもしかしたら、5月にはユニフォームは貰えてベンチには入れるかもだけど」
「そうか」
何番が貰えるかは分からないが今日の練習での桐谷先生との会話を思い出しながらでの、父との会話である。相変わらず口数が少ない父のため、会話は続かない。だが、いつものことなんで気にも留めずに自席の椅子を引いて座る。
目の前にある、いつも食事をする台所のテーブルの上には湯気が出ている食事たちが皿の上に並べられていた。
メインの大きな皿の上には、ほやほやの黄金色の衣を纏ったトンカツが1枚。千切りキャベツとゆでブロッコリー。彩りに添えられたミニトマトが、ちょこんと端に乗せられている。そしてお椀には、豆腐とわかめの味噌汁。茶碗には、つやつやで粒1つずつ立っている白米が少し多めに盛り付けられている。どことなく、「育ち盛りだからちゃんと食え」というメッセージを目の前の食事から感じる。
普通に美味しそうな夕飯であるのは確かだ。だが、疑問が湧く。
「……俺、明日試合に出ないんだけど」
「はあ……」
母はそれが何か? と言いたげな表情だった。低い位置で後ろ髪を1つに縛り、くるんと纏めたラフなお団子のせいか表情がよく見える。
まあ特段、ゲン担ぎとか気にしない両親なので意味は別にないだろうなとは思っていた。ただトンカツ=ゲン担ぎという方式は世間一般ではあるのは確かで、それなのかなと何となくふとそう思ったから聞いたわけだが。だからといって受験とか大事な日に必ずトンカツやカツ丼を何度も出されるのも嫌だけど。すると母が、訝しげに続けて言う。
「だって、トンカツの気分だったし。あと安かったし」
母の手には、よくスーパーに置かれている総菜が入っている少し大きめなプラスチック容器が1つ。もう片方の手の爪には『3割引き』と赤と黄色と目立つ色、ポップなフォントで書かれたシールが付いていた。
なんとも言えない気持ちになる。まあでも。
――まあ、そんなもんか。
深く考えないでおこう。シンクのところで手を洗っていた母がかけてあるタオルで水分を拭き取り終わり、いつもの定位置である自席に座る。家族全員で「いただきます」と手を合わせて、箸を持ったとき。「達也」と声をかけてくる母。そちらに顔を向ける。
「まあ先輩達のプレーを見て、勉強だと思って頑張りなさい」
「そうだな、頑張れ」
母がそう言うと、それに続けて父も言う。「ね?」と少しだけ口元を上げて笑う母に俺は「おう」と答えた。会話も一区切りになり、父や母が食事に手を付け始めたのを見て、俺もズズッと音を立てながら味噌汁を飲む。口の中に味噌の風味とだしの旨味が広がり、箸で掴んでいた少し柔らかいが触感はしっかりしている豆腐も食べる。その次にはトンカツを箸に取り、口にしするとさくりと軽やかな音を立てる。電子レンジで温められた数時間前までスーパーのお惣菜に置かれていたものとは思えないほど豚肉の甘味と旨味のあるトンカツだ。
――高校こそは、試合に沢山出てやる。そのためにも身体も強くしないとな。
なんてそんな決意をしながら、もぐもぐと口に含んでは呑み込んだらすぐ別のおかずや白米、味噌汁とバランスよく交互に箸を進める。
あと2週間にもなれば5月。あっという間だ。短い期間でも出来ることはしていこう。明日の試合も出ないからじゃなく、出ていないからこそ見えるものもあるかもしれないと明日のやることを脳内整理しながら夕飯の時間を過ごした。
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