第5話
「ねー・・・。明日の仕事、どれくらい大変?」
「どうだろうなぁ。今のところ危険な予兆は見られないが・・・家主の気分次第かな・・・。」
広いひろい油粘土のホールの真ん中らへん。猫足の引き出しや膝位の高さの丸っこい腰かけ椅子、さらにはフリル付きのクッションや脱いでほったらかしの靴下まで、ピンクや淡い水色が主体のファンシーグッズがギュッと集められたおもちゃ箱のような”小部屋”空間の、そのまた隅っこの方に置かれたベッドの中に、彼女はいつも通りもぞもぞと潜り込んでいた。
「いつもね、いつも聞こうと思って、でも聞けてなかった事があるの。」
「何?」
「怖くないの・・・?」
少し意外な質問だと思った。意外だけれど、驚くような質問でもない。アレを見たり聞いたりしてそう思わないことの方が不自然で、回廊に来た人間は殆どの場合早いうちから思い抱く感情だろう。意外だったのは、それを彼女の口から聞いたことだった。彼女がまだ幼さの残る少女であることは分かっているつもりでも、普段の快活な言動や、しかしどこか深く物事を見ているような賢い目で見つめられる度に、少しずつ自分の中で彼女のことを大きく、尋常な存在でない様に見てしまっていたからだった。
「怖い、かな。きっと、怖い。多分、怖い。」
「そうなんだ・・・。」
眠そうな顔をしていると、いつも以上に彼女の瞳が深みを増した色をする。僕は最初、これを覗きたくて彼女の枕元に座ったのだと思い出させられる。これはきっと彼女の目がそうさせているんだ。
いや、これは言い訳だろう。全部自分の問題で、自分の問題なのに、それを知らず知らずのうちに彼女に加担させようとしているのではないか。僕の中でどんどん大きくなっていく彼女の存在に頼ろうとしているのではないか。これは僕の悪い癖だと思う。しかしそう思うに比例するように彼女はまた僕の中でさらに巨大になっていくように感じる・・・。
「みんなそうだ。」
「・・・わたしも。」
ゾっとした。
彼女が僕にあんな質問をしたのは僕のこういう部分のせいなのか?俺は彼女には怖がっていないように見えているのだろうか。もしそうならそれは正に僕が僕の恐怖心を彼女に寄りかかって気を楽にしようとしているからかも知れない。もし彼女がそんな怖がっていない俺を少しでも羨ましく思ってしまうような事があれば、俺はなんてことをしてしまったんだろう。俺が怖がらずにいれるのは、少なくとも今は、目の前で今にも夢の世界に沈みそうな彼女自身のおかげの筈なのに・・・。
「どうしたの・・・?」
ハッと視界が明るくなった。僕はどれ位考えて止まっていたのだろう。
「あ、ありがとう。ハハ、そんなこと聞かれたの久しぶりだったから。」
「そう・・・」
「こう見えて僕も結構怖がりさ。毎日君が寝た後は部屋に戻って、次の日に必要な物がちゃんと鞄に入っているか2回も確認しないと寝られない。もし忘れたらと考えるとゾっとするからね。君にはそうは見えてないかもしれないけど・・・」
「ううん。」
「ん・・・?」
「私はあなたがいつも心配なの。いつもきちんとしてて、でもいつも何か言いたそうで。いつか・・・教えてね・・・」
「・・・」
あてられる。熱い。どんどん大きくなる背中から寄りかかる肩を離せない。いや飲み込まれていく。もう肩から先は彼女の中に埋まっていて、抜け出そうにも彼女の温もりが全身を脱力させてしまう、抵抗できない。彼女になら俺は、隠さなくてもいいのかもしれない。心からの気持ちを、俺が彼女に思っている事を彼女はきっと受け止めてくれるだろうか。
「俺は・・・」
『もうその先は言わなくていいわよ。』
明るくなった視界を光で斬るように背後の気配を目で探ると、目線を落とした少し先の方、鈍く黒光りする油粘土の壁を背景に白いお腹のぬいぐるみがスッと立っていた。
『もう寝てるわよ。』
視線を彼女に戻すと、そこにはいつの間にかスヤスヤ寝息を立てている彼女がいた。
『気持ち良さそうに寝てるわね。良かったわ。起こしちゃったらかわいそうよ。』
ふーっと長めの深呼吸をする。
「どんな感じだった。」
『手いっぱいに抱えたクリスマスプレゼントを突然取り上げられた赤ん坊みたいだったわ。』
「そんなに酷かったか・・・」
『あら、傷ついちゃった?』
「言葉も出ない。すっかり目が醒めちまった。」
『・・・』
「・・・どうした黙りこくって、君らしくない。それじゃあ君の方がクリスマスプレゼントみたいだぞ。」
『彼女に抱いてもらったら・・・そうすれば』
「彼女は少女だ!俺たちが寄りかかって背負わせられる訳がない!」
『凄い顔ね・・・。あなたがアサミに見せたくなかったのはきっとそれね。私がクマならあなたはまるで狼よ。死地に取り残されて牙を剝く一匹狼。』
「俺は弱くない。」
『そうね、それもかなり。なんとなく分かってたわ、アサミは気付いてないみたいだけど。よく隠してるとも思ってるのよ?』
「彼女の目に甘える訳にはいかない。」
『そうよね。でもアサミは特別よ。あなたもそういう類の人間なら自分の感覚が完全な妄想だとは思えないでしょう。』
「お前は本当に何者なんだ。」
『教えません。だからあなたもあなたの事を私に話す必要はありません。』
「契約か?」
『あなたとの契約は〈アサミを外の楽しさを教えること〉。だから不履行を避けたい。少なくとも今はどちらも望んでいない展開でしょう。』
「俺が今後その考えを変える事は無い。俺にとってアサミは・・・」
首を回して、膝の先で枕に顔を沈める彼女の寝顔を眺める。
「・・・。」
知らず知らずのうちに自分の首筋の太い血管を押し撫でていた指を離して、目の前に掲げながらボーっと眺めてみた。
「・・・。」
『なかなか大変なことになってるわね。』
「ハァ・・・」
『素直なのは好きよ!アサミもあなたが子供みたいに泣きついてきたらきっとギュッとしてくれるわ!その時は私もあなたの頭をパシパシ叩いてやるんだから!』
「ハァ・・・!!」
『あったかいわよ!最高よ!あなたも体験してみるといいんだわ!』
「・・・帰る!」
『また明日ね。』
「これじゃぁ寝れないよ・・・」
早く寝たかった筈なのに、気付けば随分長居してしまった。厨房はまだやっているだろうか。灯りが消えていたら自分で皿を洗わなければいけなくなる。
「また明日。・・・おやすみ。」
食器トレーを乗せたカートを静かに押しながら油粘土の鳥籠を出た。
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