第2話

 「今日も味染みてなかった・・・。」

 広い、広い部屋。初めてこの部屋に入った時、正直洞窟にいる気分だった。一面ネズミ色、首を大きく反らすと見えてくる巨大なドームの天井。まるで油粘土を押し固めたような、煤汚れているようで、その癖部屋中にニョキニョキと生えたスポット照明の灯りをよく反射してくる不気味な壁。ためしに平手でペチペチと叩いて見ると子ガエルが水に飛ぶ込むような非力な音と鈍い反動を骨に伝えてくる。どうやら材質も厚さも正真正銘のようだった。

 そんな部屋の隅に寄った所にある、天井からダラリと垂れるカーテンで覆われたスペース。気休め程度の排水溝と大きなシャワーヘッド、それに錆びかけの小洒落た猫足バスタブが置かれただけの8畳はある浴室。その中央で彼女はいつも通りのバスタイムを楽しんでいた。

 「大根の事か?」

 「それ以外に何があるの?私はただただもう少し煮てから出してほしいの。透明な水面に浮かぶ白く濁った大きなキューブを、もう半分に切って、それでもう5分長く煮てほしいの。」

 「そりゃあ、すまんな。」

 「・・・あなたが煮てるの?」

 「いや、俺じゃない。俺は自分の分は自分で作ってる。」

 「何食べたの!」

 「今日はチキンだった。油に潰したニンニクの香りを移して、皮目を焦げそうなくらい焼いて、最後に塩胡椒を振って食った。」

 「おいしそう・・・」

 「旨かった。」

 カーテン越しに透ける彼女の裸体が膝を抱えてしゃがみ込んだ。正直だいぶ痩せていると思っている。彼女の食事を運んで、彼女の食事を見守って、味の感想を聞く、毎日続けているのだから何となくは分かっている。あの薄味だろうスープに塩の一振りでもしてやりたいし、彼女の身体はそれくらいのものを正直に求めているだろうということをだ。

 「実は2週間に1度くらいはお前の文句を、こう、それとはなしに伝えて見てるんだ。『大根いいですね~僕はおでんなら大根派だな~』とか『そのチキンをスープに放り込んでグツグツ煮てやると最高に旨いだろうな~』とかさ。」

 「そうだったの。」

 「なかなか気持ちを伝えるのは難しい。お前のそのぬいぐるみの方が幾分か利口d・・・」

 「聞き逃さなかったわよ。」

 「何を?」

 「あなた今、厨房にチキンがあるみたいな事言わなかった?それにあなたの食事もチキンだったみたいね。」

 (あっ)

 昔から口の軽さは何度か注意されたことがあった。そして彼女には隠し事も多かった。お互い色々と腹に一物を抱えながら、しかしそれなりの距離感で打ち解けようとしなければならない今の環境は私にはやはり荷が重い。

 「・・・厨房にも考えはあるようだから」

 「次はこう言ってね。『私の健康観察の結果、成長期の彼女の身体には動物性たんぱく質を十分与える事が心身ともに大きなメリットを与える事が分かりました。取り敢えず厨房にあるもので構いませんから、何か一品追加して下さい。』って。」

 「固いな・・・。」

 「あなたは回りくどすぎるのよ。」

 「あれは”円滑なコミュニケーション”なんだよ。時には回り道も必要なのさ。それにこうして数を重ねるごとに向こうも事情を察していつかは最高の食事を・・・」

 「『ボールの届かないキャッチボール。』」

 「・・・頑張ってみるよ。」

 「あなたのそういうところも愉快で好きよ。もしお喋り人形だったら寝るまで枕元に座らせておきたいわ。」

 「今だって変わらないだろう。」

 「お人形は寝ている間に勝手に歩いて行ったりしないわ。」


 いつの間にかバスタブにお湯を溜めて入っていた彼女は、湯船から露わになった細い足を組み替えながら鼻歌交じりに天井を見上げているようだった。

 「チキンは今度だけど、君のお友達用の洗剤は注文しておくよ。」

 「本当!!!」

 ザバン、とドームによく響く音を立てて彼女は湯舟から上半身を打ち上げた。

 「1週間はしないと思う。」

 「ありがとう!私の石鹸だとどうしてもあのシミは落とせなかったのよ・・・。」

 「落ちるといいな。彼女の白いキュートなお腹が台無しなままだとこっちも申し訳ない。それに、」

 『そんな罪悪感、感じてたのね。』

 背後から突然の声、この声はいつも突然鳴る。全く意識してなかった方向。彼女を見ていて、お話をしていて、突然死角からぶつけられる。もう慣れたが一生慣れない、慣れる筈無い超常の違和感を纏っているその声の主は―――。

 「えーと、チー・・・ミー・・・あぁミカちゃん。」

 『なんでもいいわよ。私は私よ。』

 カーテンの向こうでは華奢な身体がバシャバシャと跳ね回っている。

 「やっっとそのシミ取れるかもよ!!チヨちゃん!!」

 『ほら』

 「・・・君はいいのか、それで?」

 『私以外の"皆"も全員そうよ。あなたたち人と違って、お腹に綿を詰められて、ボタンのお目目を縫い付けて貰えれば、もうそれでいいの。私たちの臨む〈一先ずの全て〉は手に入っているわ。あとはそう、私たちを抱きかかえてくれた子供たちに少しの愛情を奉げて貰えれば、満ち足りてしまえるの。』

 「正直、羨ましい。」

 『・・・あなたもアサミに抱いて貰えば?多分あなたならできるわよ?』

 「・・・難しい事を言うなぁ。」

 そこにトンと座るのは紛れも無い熊のぬいぐるみだった。だったというかもう知ってる。いい加減慣れてきた、慣れないけど。本当なら真っ白い起毛生地のお腹がキュートで、ツヤツヤの大きな4つ穴ボタンのまなこを真っ直ぐこちらに注いでくる仕立ての上等なテディ・ベアは、


 『さぁ、昨日の続きを聞かせて貰いましょう。』


 仕事が始まる。

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