晴天・高架下・煙草

@My_Life_Of_Music

第1話

 雨が明けてすぐに家を飛び出した。ギンギンに突き刺す日差しを避けて水溜まりを弾く。卸したての長靴がチラチラ、真っ青な空を泳ぐ綿雲を反射させている。ピンク色のビニルなきらめきは跳ね返る水滴すら、紐の切れた真珠のネックレスようにキラキラ光らせて、

 「こんなにいい天気なのに!」

 足元ばかり見ている。

 何もかもが煌めいている。ザラザラのアスファルトの切り立ったエッヂが、向こうに立つカーブミラーが、屋根屋根から滴る雨水の雫が…。雨の喧噪が過ぎて静まった筈の街並みがまた息もつかさずにポタポタと動き出している。肌着のおっさんが便所サンダルを突っかけて、ヨロヨロ走るママチャリが水溜まりを切って走り去る。つま先に現れた極小のモーゼ。ジャバジャバ連なる飛沫の轍が長靴にかかる。新品の長靴が初めて経験する小雨だった。

 ずっとこの日差しを浴びているにはまだ少し暑い。最初から散歩のコースは決まっていた。小学校の角を曲がって真っ直ぐ北へ。車道と歩道を分けるには少し無力な消えかけの白いラインが続くたわんだ路地を、真っ直ぐ北へ。

 大雨が降った後の道はいつもより自由に見える。普段は見えない凹凸が水溜まりのおかげで露わになって、まるで悠々と伸びる連峰の山道をミニチュアにしたように見える。次の交差点までに小さな山が3つはある。長靴をボコボコ鳴らしながら小島から小島へ飛び移る。

 コンビニの前を通り過ぎると高架にもぐる。雨上がりの高架が落とすいつにも増して濃い影が切り取った晴れと闇の境界を、息を止めて跨ぐ。

 雨が明けてすぐの高架下は、ジメジメシトシトと陰湿な気配に満ちている。まだ雨が降っているかのよう。硬く巨大な鼠色の積乱雲が今にも四角の角から埃っぽい大粒の雫を落としてきそうな。100%の湿気が口腔に入り込んでくるようでグッと息を堪えてみる。

 高架下の臭い。仄かな下水と雑草の青臭さが、まるで眼前を飛び回る1匹の蛾のように漂ってくる。雨が降る直前のコンクリートのニオイとは違う。そう、料理の時にローリエの葉を手のひらで叩いた時のような、刺激された香り…。これが香って初めて、この陰々とした風景の色彩に気付く。浅い昼寝から覚醒した時眼球に差し込む昼下がりの日光のような、そんなビビッドな刺激が全身の肌を刺す。一種のトランス状態に近いのかもしれない。気持ちのいい香りばかりではない、しかしとても落ち着く。自分はまさにこれが見たくて消え入る雨雲を切り裂くように家を飛び出した気さえしてくる。

 だんだん駅に近付いてきた。チラホラ飲み屋街に差し掛かっても、客が見込めない飲み屋はみんなシャッターを閉めてずぶ濡れで黙りこくっている。こんな時じゃなきゃ見られない特別なつまらない景色。ペチペチ歩いていると今度はひときわ重い匂いが鼻に乗っかってきた。すぐそこのタバコ屋が開いている。自分は吸わない。けれど、この町にはすっかりこびり付いた匂いだと思う。目の前の景色をジッと見る。いつも路地中をユラユラ漂う幽霊みたいな奴が、今日に限って輪郭を濃くして立っていた。コンクリ臭い水気を纏って、細い道の脇の方にボーッと突っ立っている。

 こいつも多分空を見てる。ボーッと煙を吐きながら立ち止まって、真っ青に晴れ渡った雨上がりの空を眺めてやがる。

 みんなやる事は同じなんだな。この嘘みたいに晴れ渡った空に呆気に取られてみたいし、そうでなきゃ久しぶりの静かな昼にカーテンを開けて昼寝でもしていたい。みんなそんな気分にさせられちまう。


 ―――よく晴れましたね。


 そう息を吹いてみると目の前の影は振り返って、首からコクンと頷いた。そんな気がした。鼻を掠めて耳を撫で消えていく、雨上がりの煙だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

晴天・高架下・煙草 @My_Life_Of_Music

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る