同居

 ろくに友達も作らず、家と学校と塾だけを生活の場としていた高校時代の努力(というか習慣)の結果、同年代で同じく会社員をしている人と比べると高い収入を得ていると思う。しかし、生来の無趣味のためにお金の使い所が無く、せっかくの潤沢な給料を持て余したので、都内ではないものの20代にして3LDKのマンションに一人暮らししている。母には貯金しておけばいいのに、と言われたが、高価格帯のマンションを購入することが恐ろしくない程度には堅実な未来を会社に約束されている。まあ、現在は給料ばかりか部屋も有り余っているが。

 そこそこの清潔感とセキュリティさえあればワンルームのアパートでも構わないと思っていたけど、会社の先輩は大きい家の方が一人暮らしだと思われなくて安全だと教えてくれた。男女に関わらず、一人暮らしであると他人がすぐに察することができるようでは、防犯も何もないそうだ。


「でっかいマンション住んでんだねえ…」


 玄関で靴を揃えながら、北岡さんは感嘆したように小さな声で言った。エントランスでも「本当にここ?本当に一人暮らし?」といっそ失礼なくらいに聞かれた。

 確かなものではないとしても、幼い頃から「成功者」の雰囲気を持つ人がいることを思うと、恐らく「そう」ではなく目立ちもしなかった私が同級生らの中でも金銭的な面でかなりの余裕を持つ側になっているのは、北岡さんにとって意外だったのだろう。

 では逆に、私が貧相なオンボロアパートに住んでいたら何と言ったのだろうか。北岡さんにだって一般的なデリカシーは備わっていると思っているけど、その発言は予想の斜め上を行くことが多いのだ。「へえ、原田さんっていうの。じゃあ、はららんちゃんって呼ぶね」と言ったことが、最も突飛な発言だったと思う。予測不能、つまり予測の意味が無いのが北岡さんという人なのかもしれない。

 来客用のスリッパを渡して、とりあえずリビングに荷物を置いてもらった。


「北岡さん、もうご飯は食べてる?」

「うん。電車に乗る前にコンビニで」

「そう」


 コンビニか。食べる量にもよるけど、お金が無いなら24時間営業の牛丼屋にでも行った方が安く済ませることができそうだけど。でも、あの手の牛丼屋はチェーンと言えども初めて1人で行くのは少々勇気がいるかもしれない。ああ、北岡さんの内情は考えても無駄なんだった。

 途中で放棄した思考もろとも吐き出すように息をつき、首を振った。荷物を置いて突っ立っている北岡さんの方を向いて、廊下へのドアを指さした。


「玄関に一番近いドアが水回り。お風呂は今から沸かすから10分ぐらい待つけど、入りたかったら入っていいよ。トイレはその隣ね」

「じゃあ、ありがたく頂くね。ソファ座っていい?」

「いいよ」


 ソファに座った北岡さんは、「テレビつけるね」と言ってテレビを点けた。私が朝に見ていたニュース番組のチャンネルが最初について、夜の報道番組をやっていた。北岡さんは番組表を表示して、何を見るか考え始めたようだった。住み込みで働いていたと言うし、テレビを見るのは久しぶりなのだろうか。

 私はお風呂の自動ボタンを押してお湯を張ってから、昨日の夕飯の残りのカレーを温め直した。冷蔵庫から、タッパーに入った冷やご飯を出して電子レンジで加熱し、少しだけ火にかけて温めたルウをかけて、福神漬けは…昨日食べきったから今日は無し。鉄スプーンとカレーを持ってダイニングテーブルに運び、コップにお茶を注いだ。いただきますとは言わずに、無言で手だけを合わせて、スプーンを持った。


「秒速で作ったの?」


 北岡さんが、テレビに視線を向けたまま問うた。まだゴールデンタイムだからバラエティでも見ているのかと思ったら、穏やかなナレーションの旅番組を見ているようだ。

 口に含んだカレーを飲み込んだ。


「まさか。昨日の残りだよ。」

「そっか。美味しい?」


 相変わらず、北岡さんはテレビに視線を向けたままだ。普段の彼女があまりにも読めないからなのか、北岡さんと話していると、ただの雑談にすら深く読めない意図のようなものがあるように思えてしまう。何か大きな意味を孕んでいるように思えるこの問いも、普通に体面通り受け取って答えればいいものなのだろう。多分。

 北岡さんを前に、絶対なんて無いのかもしれない。


「美味しいよ。普通に。」


 「いいね」という返事があってから、お風呂が沸いたことを知らせるアラームが鳴るまで、それ以上の言葉は交わさなかった。

 タオルと着替え、歯ブラシに携帯シャンプーとリンスを持った北岡さんは、さながら研修旅行中の学生のようだった。曰く、「初日は絶対ホテルだと思ったから、このまま旅行に行けるように荷物詰めたんだ」そう。

 お風呂に行った北岡さんを見送ってから、カレーを食べ終わった私は鞄からクリップを取り出して、丸カンじゃなくロブスタークリップに付け直した。これで、勝手に緩むということはもうないと思う。

北岡さんがつけっぱなしにしたテレビは、外国の景色を映していた。ガムラスタンという旧市街らしい。スウェーデンの旧市街であり、観光名所。日本の有名なアニメーション映画の舞台にもなっていて、日本人観光客からの人気が高い。明日には忘れていそうな情報だ、と思った。

 北岡さんが上がってきてから私もお風呂に入って、歯を磨いた。洗面所には北岡さんの歯ブラシが置かれていて、ちょっと図々しいなと思った。でも、不快だとは思わなかった。


 翌朝、土曜日も朝早く起きるのは私も北岡さんも同じだった。どのくらいの期間、私の家にいるつもりなのかは知らないけど、簡単に間取りを説明して家の掃除を手伝ってもらった。掃除といっても、掃除機をかけて、一部は拭き掃除をするくらいのものだけど。

 トーストと目玉焼き、インスタントコーヒーを朝食に出して、朝のニュースをぼんやり眺めてから近所のスーパーに2人で買い物をしに行くことにした。

 小規模な割に、輸入品なんかの少し珍しいものも扱っているそのスーパーはどうも近所に住んでいる人間しか来ないようで、マンションの住人は多いとは言え頻繁に訪れている私は一部の店員さんと顔見知り程度にはなっている。私はいつも1人で来るが、北岡さんと一緒に来ていたことで、最近バイトを始めた高校生の女の子が少し驚いた顔をしていた。

 明日も休日だから、買うのは今日の分の食材だけでいいやと考え、北岡さんと野菜コーナーに向かった。


「苦手な食べ物ある?」

「んー、大根が苦手かなぁ。煮てあったら大丈夫だけど。他は大丈夫、だいたいなんでも食べるよ」


 大根が嫌いなんだ。知らなかった。大した関わりが無かった以上、私が北岡さんの食の好みなんて知っているはずもないけど。

 北岡さんはカートを押しながら、無言で野菜を見て回る私についてきた。時々、「それ何?」とか、「何を見て決めてるの?」とか聞かれた。家庭科の教科書に載っていそうな食材選びの基準を答えて、カゴに野菜を入れていった。

 今日の昼食と夕食の材料を選び終えて、少しお菓子を買うことにした。北岡さんにチョイスを任せてカート押しを代わり、棚の前で真剣な表情でお菓子を選別する北岡さんを見守った。

 不思議と、北岡さんが選ぶものは私も好きなものが多かった。


「はららんちゃん、ポテチ何味が好き?」


 棚の前に立ち止まった北岡さんが聞いてきた。北岡さんが見ている棚には、4種類のポテトチップスが並んでいた。塩味、コンソメ味、梅味、ハバネロ。…ハバネロは無いな。


「その中ならコンソメかな」

「ほんと?私もコンソメ好き」


 北岡さんはコンソメ味の袋をカゴに入れた。普段は会社でも食べやすいようにグミとかのチャック付きのお菓子しか買わないから、大袋のお菓子を買うのは随分と久しぶりだったことに気付き、口角が上がるのに気づいた。昨日の北岡さんは高校時代と変わらない掴めない態度だったけど、お菓子を選ぶ姿は心なしか昨日より気分も体調も良さそうだ。その時、意識を水面に引き上げるような「ふふ」という笑い声がした。目が覚めるような気分がして声がした方を振り返ると、その様子を見ていたであろう初老の女性店員さんが控えめに笑っていた。笑い声に反応したのは北岡さんも同じだったようで、私と北岡さんをそれぞれ見た店員さんは笑みを深めた。


「恋人みたいね、あなたたち。微笑ましいわ」


 その形容に少しぎくりとして北岡さんの顔を盗み見ると、ただただ褒め言葉としてそれを受け取ったか、もしくは何一つ感情が動かなかったかのように微笑んでいた。しかしそれは、どうにも違和感のある笑い方だった。高校時代の彼女は、もっとゆるりと、心の壁が溶けるような笑い方をしていた気がする。


「まさか。」


 北岡さんの迷いのない否定に、私も曖昧に笑った。

 「あらあら、そうなのね」と言って、店員の彼女は微笑んだまま通り過ぎていったけれど、もし北岡さんが私の家で居候しているのだと言ったらどんな反応をするのだろう。恋人じゃないけど、友人同士のシェアハウスでもなく、居候。

 世間的に見て、居候って悪いものなのだろうか。というか、ホームレスと同じように、世の中に居候をしてる人はどれくらいいるんだろう。

 北岡さんに居候されるのは嫌じゃないけど、私は家主が同級生であっても居候したくない。

 スーパーからの帰り道、無料でもらった変な柄のエコバッグを持つ北岡さんがふと立ち止まった。昨夜の散歩とは逆だ、と思いながら、私も立ち止まって北岡さんを振り返った。


「どうしたの?」


 北岡さんは真っ直ぐに私の目を見て、さっきの店員さんに向けたのとは少し違うような微笑みを浮かべた。高校の頃の、私が目を惹かれていた笑みにとても近いものだ。


「はららんちゃんのこと、美華って呼んでもいい?」


 ほんの少し、心臓が早く脈を打ち始めたような気がした。どう呼んでも構わないと思っているけど、理由を尋ねた。「はららんちゃん」としか呼んでこなかった北岡さんが、原美華という私の名前を知っていたのが意外だったのだ。


「さっき、恋人みたいだって言われたでしょ。恋人だったら名字じゃなくて名前で呼ぶのかなって思ったの。あと、はららんちゃんってちょっと言いにくい」


 自分で決めたのに、呼びにくいから呼び方を変えるってそんなことあるのか。そのあだ名が高校時代に広く浸透していたのならまだしも、北岡さん以外に私を「はららんちゃん」と呼ぶ人はいなかったんだから、いつでも呼び方を変えればよかったのに。というか、恋人みたいって言われて否定したのは北岡さんなのに、なぜ恋人っぽくしようとしているのか。


「別に…美華でいいけど…。恋人ではないからね?」


 確認するように言うと、北岡さんはへらりと笑った。さっきは迷わず否定して、今は、恋人じゃないという事実に頷くこともしない理由は分からない。

 北岡さんは、何を考えているんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る