邂逅
わざわざ会いたいと思うほどの友人がいなかったので、同窓会にも行かずに大学を卒業して、社会人生活も3年目に突入してからのことだった。件の北岡さんのクリップを不意に落としてしまって、それまで頭の隅に仕舞われていた高校時代の記憶を思い出した。鞄のベルト部分に丸カンで付けていたのが、緩んで落ちてしまったのだ。
部長が変わってから初めての大仕事が片付いた打ち上げに顔を出したから、脳はアルコールで少し浮ついていたけど、クリップとアスファルトがぶつかった小さな金属音でクリップが落ちたことに気がついた。
実家の最寄駅である鹿乃川より常に混んでいて、でもラッシュ時に比べればずっと人の少ない現自宅の最寄り駅の構内で、落ちたクリップを屈んで見つめた。長いこと鞄につけていたせいで日焼けしたオレンジのアーガイルに、少し錆びた金属部分。クリップに注目するのは久しぶりのことで、持ってはいたものの存在はほとんど忘れかかっていた。
自分の手に初めて収まったその時から少し色が変わっているけど、クリップを見つめるだけで高校生活最後の2日が鮮明に思い出された。北岡さんと話したのは、このクリップの約束をした日を含めて、片手で数えられるほどしかない。かろうじて、あの日が初めての会話ではなかったといえる程度だ。
そういえば高校の頃は、放課後、校舎の正面玄関から出てすぐのところにある人工芝で、ユニフォームとか練習着とかで部活の準備をしている女子サッカー部の様子を見るのが好きだった。あれは毎週火曜日と水曜日、それから金曜日の光景で、そこには北岡さんの姿もあった。校則で禁止されていないと言っても、髪の毛を染めている人は少数で、ふわふわと跳ねる明るい茶色が鮮烈なものとして映っていた。
懐かしさに少し口角が上がっているのを自覚して、他人にしてみればとても奇妙な様相を呈しているかもしれないと思い当たって表情を引き締めた。いつまでも屈んでいるわけにもいかない、と、クリップを拾おうと手を伸ばしたとき、別の誰かが正面からクリップを先に拾った。なんて悪趣味なタイミングなんだ、と瞠目して、クリップを拾ったその人を見て、再び目を見張った。驚きのあまり言葉が出ないなんて経験をするのは、初めてだった。
「ダメじゃんね、大事にしてって言ったのに落としたら。」
ニンマリ笑って、私にクリップを差し出したのは、北岡さんその人だった。
大きなリュックを背負った、やけに荷物が多い北岡さんは、髪が全部オレンジだったのがインナーカラーだけになっていたし、メイクも変わっていた。でも、雰囲気や笑顔は高校の頃と変わらなかった。学生の頃から周囲に美人だと言われる人は素材がいいから、抜ける垢も少ないというのは本当らしい。
差し出されたクリップを怖ず怖ずと受け取ると、北岡さんはしゃがんだまま「ちょっと歩こうよ」と私を誘った。混乱のあまり反射的に「いやだ…」と答えた私に、北岡さんは「駅前で屈んだままニコニコしてる女の人ってちょっと怖いよね」とにこやかに返した。やっぱり変な人に見えていたのか、とショックを受けると同時に、「ね。」とダメ押しのように言う北岡さんに変な汗をかいて、散歩をしようという誘いに頷いた。北岡さんとの再会自体は喜ばしいことだけど、タイミングと登場の仕方が高校時代の陰気な私を呼び起こしたのだ。人気者らしく「フッ軽」さを見せる北岡さんの隣に立ち、駅からの夜道を歩いた。
東京から出てしまえば、夜はかなり静かだ。隣を歩く北岡さんの鼻歌は夜の風景にじんわりと馴染んでいるように思える。
北岡さんに対する疑問は多すぎて、聞きにくい。というか、そもそも7年ぶりに会う同級生とどう接したらいいのかわからない。相手のことを覚えていないから対応に困るとかいうのとは違う、記憶にはあるけど仲が良かったわけではない同級生と、何を、どう話すのが正解なのだろう。無論、北岡さんへの正しい接し方がわからないのは高校時代だって同じことだけど。それに、失態というか、妙な姿を見られてしまった事による羞恥もあって、言葉が出てこない。ここにいる理由とか、声をかけてきた理由とか、なんでそんなに大荷物なのかとか、今は何をしてるのかとか、疑問は次々に湧いてきたけど、喉までせり上がりもせずに奥の方に引っ込んでいった。でも、このまま無言で夜の散歩をするのも変な感じだ。ラフでおしゃれな格好の北岡さんに少し緊張しながらスーツ姿で話しかけるのは、側から見れば芸能人とマネジャーのようかもしれない。
何か話さなければ、と焦燥を感じて、計画もなく口を開いた。
「北岡さん、元気だった?」
頭の中でさんざん騒いでいたのに、手紙の挨拶のような声の掛け方になってしまった。そっと北岡さんの横顔を見ると、彼女は鼻歌をやめて、暫しの間の後で「まあね」と答えた。高校時代の彼女なら、是と即答しそうなものなのに、と思った。
「はららんちゃんは元気?」
「あ、うん。普通かな。今日は疲れてるけど」
「スーツだし、OLさんしてるの?昨日から無職の私とは違うねえ」
「えっ」
無職という事実を何も特別なことではないかのようにあっけらかんとした様子で言った北岡さんに、思わず立ち止まってしまった。北岡さんは3歩ほど進んでから、不思議そうに「どしたの?」と言って立ち止まった。その様子に、私は北岡さんが自分とは全然違う価値観で生きている人なのだと悟った。性格の違いではなく、「住む世界が違う」という形容がよく似合うような、それくらいの感覚の齟齬があるのではないか、と。
それは、高校時代も思い続けていたことだった。学校中すべての人を友達の枠に入れてしまうような北岡さんの振る舞いは不快ではなかったけど、到底、共感や理解ができるものではなかった。育ってきた環境の違いはもちろんあるだろうけど、例えば今の「無職になった」なんて、他愛もないような話みたいに軽々しく言うことじゃないんじゃないか。それは取りも直さず人生の問題だし、私はそんな状況に陥っていたら慌てふためいているだろう。もしもそのタイミングで同級生に久しぶりに会ったとしても、散歩しようなんて誘わない。そもそも、特別に仲のいい人はいないし、同級生に会ったとて「散歩に行こうよ」と誘うことは絶対に無い。
北岡さんは、何を考えているのか。それとも、人はショックを受けるとかえって落ち着いてしまうものなのだろうか。いや、それは一種の放心状態かもしれない。
脳内に「理解できない」という文言ばかりが浮かぶ私の表情から何かを読み取ったのか、北岡さんは体ごと私に向き合った。
「はららんちゃん、高校卒業してから私が何してたか知ってる?」
「…美容師の専門学校行ったっていうのは、知ってる」
「あ、知ってるんだ」
「たまたま聞いたから…。」
今更、進路を勝手に知っているのは悪いような気がして声が尻すぼみになる私に対し、北岡さんは変わらない調子で、無職になるまでの事の顛末を話した。
曰く、専門学校の卒業後、北岡さんは知り合いの美容師さんの元に住み込みで働いていたらしい。でも、北岡さんと仲の良かった同僚がお店のお金を持って逃げたことで経営難に陥り、北岡さんは解雇されてしまったそうだ。住み込みだったため同時に住居も失い、荷物を全て持って彷徨うことになってしまった。昨日はビジホに泊まったらしいけど、当然、仕事も無いのにホテルでの生活を続けることはできない。
「最悪、今日は野宿かなあって思ってた」
そんな言葉で、北岡さんは話を終えた。
ちょっと、というか、かなり北岡さんの危機感には疑問を抱く。野宿というか、ホームレスって大事じゃないのか。人生においてホームレスを経験する人が日本に何人いるのか知らないけど、仕事が無い上に家も無いのは生きられないってことじゃないのか。それに、若い女性が1人で野宿するなんてあまりにも無防備だ。そこそこのセキュリティのあるマンションに住んでいる私だって、そういう類の犯罪被害に遭わないよう留意しているのに。
「バイトとか…しないの?即日でいけるアパート借りるとか…」
自分なら応急処置的にするであろうことを考えて私が溢した疑問に、北岡さんは緩く首を横に振った。
「信頼してた子に裏切られちゃうんだって思ったら、なんにもしたくなくなっちゃった。」
なんだか、意外な言葉だと思った。高校の時に彼女とそんなに関わっていなかっただけだろうけど、常に明るいイメージの北岡さんから弱音のようなものを聞くのは初めてだった。
「はららんちゃん、拾ってくれない?」
何かを諦めたような笑顔の美しさに、息を飲んだ。
そんなとんでもない申し出に、どうして悩む間も無く頷いてしまったのだろう、と自分の行動に疑問符を浮かべる私を他所に、私の家に着くまで、北岡さんは鼻歌を歌っていた。知らない曲だった。
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