ダブルクリップの約束

福基紺

あの頃



 カツン、と、軽い金属とアスファルトがぶつかる音がした。


 電車の揺れに身を任せ、微睡んでいた意識が明瞭になった。

 ガタン、とカーブで車両が傾いたとき、視界の端で何か小さいものが床を滑っていくのがわかった。


「次はァ、終点、鹿乃川ー、鹿乃川です。」


 小さなそれは、私以外の乗客がいない車内の床をスーッと滑り、カン、と軽い金属質な音を立ててドアにぶつかって、止まった。じっと目を凝らして見てみると、落ちているのはどうやらダブルクリップのようだ。膝の上で抱えていた鞄を座席に置いて、クリップを拾い上げた。一般的な黒色のものと違って、オレンジ色のアーガイルのそれには見覚えがあった。同じクラスの北岡さんが使っていたものと同じだ。北岡さんは鹿乃川の5駅前に降りているはずだから、彼女が落とした可能性が高い。

 明日、学校で渡そう。

 そう思って、クリップを鞄に入れた。


 翌朝、いつも通り、まだ誰も来ていない教室のドアを開けた。防犯として放課後に施錠される教室の鍵を開けるのはいつも最初に登校してくる私で、鍵を開ける係は存在しないのに、私が開けるのが当たり前になっていた。


 私は、クラスの中では無害で目立たない人間という位置づけをされている。ほとんどの人が私のことを「原田さん」と呼び、一部の女子は「美華ちゃん」と呼ぶ。周りの雰囲気を暗くしない程度に大人しくして、先生から良くも悪くも目をつけられない成績を取った。それが、明日で最後の日を迎える高校生活の総括だ。青春と呼ぶべき青春は無かったけれど、それを寂しいとも悲しいとも思わない。


 自分の席に着いて、窓から朝練に励む陸上部の部員たちをぼんやりと眺めた。一番窓に近い列の、前から2番目のこの座席は悪くないと思う。席替えのとき、みんなは先生の目が届きにくいからか、挙って後ろの席を希望するけど、私は前の席にいるほうがいい。後ろの席より先生の声が聞きやすいし、頷いたり首を傾げたりといったレスポンスを先生に伝えやすいから授業に集中できる。

 何も、後ろの席を好むクラスメイトたちを馬鹿にしているわけではない。世間一般に言う進学校であるうちの学校の人たちは、後ろに座っていようが前に座っていようが全国模試では文句のない成績を取ることが多いし。中学校までは特に苦労もせず同級生から優等生だと認識されていた私は、高校に来てからは生来のハンデでも存在するのかと思わせるような、誰の目にも「天才」として映る人々に埋もれ、私を成績優秀者だと話題にする人間はいなくなった。中学卒業以来、交流のない元同級生の中での私の認識は改められていないかもしれないが。目立つことを好む性格ではないからそれを虚しく思ったりはしないが、自身の取り柄を奪われた気がしたのは確かだった。

 ガラガラ、と教室の扉を開ける音がした。


「あ、はららんちゃんだ〜。」


 間延びした声に、脊髄反射みたいに素早く、窓の外から視線を外してドアを見た。

 そこにいたのは、北岡さんだった。私を「はららんちゃん」なんて突飛な名前で呼ぶのは彼女以外にいないから、声を聞くだけでもわかっていたけど。

 北岡さんの髪の毛は明るい茶色で、スカートは膝上10センチくらい。明日でもう3月になるから春目前とはいえ、寒そうだ。北岡さんはひらひらと手を振りながら、「おはよぉ。」と言った。高校生活の中では関わってこなかったと言っても過言ではないほど希薄な交流しかない彼女だが、普通に挨拶はしてくれるのだ。


「おはよう、北岡さん」

「はららんちゃん、いっつもこんな早いの?まだ7時30分だし、一番乗りだと思ったんだけどなー」

「いつも7時10分くらいに来てる」


 北岡さんは早いねえ、と驚いたように言った。早いと言っても、今日の北岡さんに比べれば2本ほど早い電車に乗っただけだし、部活の朝練がある人はもっと早く学校に来ているから大したことはないと思っている。それに、うちは共働きの両親の出勤時間が早いから、家に長居しても一人ぼっちですることが無い。学校に来てしまって、勉強をするか部活の朝練の様子を眺めているかのどちらかの方が、私にとっては有意義だ。

 「はぁー。」と、控えめな声で北岡さんはあくびをした。眠いならこんな時間に来なくてもいいのに、と思ったけど、クラスの中心的な存在である彼女に自分から話しかける用があることを考えると、2人きりという状況は助かる。何せ、3年も同じクラスにいたのには挨拶することもできないのだから。

 誰かが来る前にさっさと用を済ませてしまわなければ、と急くような思いで、私は鞄に入れていたクリップを取り出して、自分の席に鞄を置いて荷物を出している北岡さんに話しかけた。


「ねえ、昨日、電車でクリップ落とさなかった?」

「クリップ?ん〜、どうだっけねえ。」


 不思議そうな顔をしつつも、北岡さんは筆箱の中を確認しだした。よくわからない鼻歌を歌いながら筆箱の中を探って、急にハッとした様子で顔をあげた。


「確かに無い!なんではららんちゃん分かったの!?」


 急に目が合ったことに驚いて半歩下がってしまったが、北岡さんは特に気に留めないようだった。


「そ、そんなに驚く…?実は、昨日の電車に落ちてるの見つけて、前に北岡さんが使ってたとこ見たことあったから…。」


 北岡さんの驚きように少しビビって、どこか言い訳するような口調になりながらもクリップを手渡せば、北岡さんは目をキラキラと輝かせた。迷惑だったらどうしようかと思ったけど、少なくともそんな風には思われていないみたいでほっと胸を撫で下ろした。でも、北岡さんはクリップを見つめるばかりで筆箱の中にしまおうとはしなかった。


「北岡さん、しまわないの?」


 そう聞くと、「ん〜」と生返事をして、何か考えるようにどこかを向いていたかと思うと、北岡さんはそのクリップを私に差し出した。訳が分からなくて少し首を傾げて見せると、北岡さんはニンマリと笑った。


「これ、はららんちゃんにあげる。あげるから、大事に持ってて。」

「えっ。」


 唐突な言葉に、一瞬だけ自分の脳が働いていないような気がした。

 北岡さんは私の手をそっと掴んで、掌にクリップを置いた。呆気に取られて固まる私にはお構いなしに、北岡さんは鞄を外のロッカーに入れにいくために席を立った。

 その挙動に目が覚めるようにハッとして、慌てて理由を聞こうとしたけど、北岡さんが出て行った廊下から明るい「おはよう」という、北岡さんとその友達であろう人の声が聞こえて、言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。北岡さんのことは苦手じゃないけど、いわゆる「人気者」な人たちの明るいオーラはなんとなく苦手だ。

 そのうちに他のクラスメイト達が登校してきて、北岡さんに話しかけにくくなってしまった。いつまでも北岡さんの机のそばに立っているのは変だと気がついて、いそいそと自分の席に着いた。なぜか私の手の中に逆戻りしてしまったクリップを見つめても、北岡さんの思惑はさっぱり分からなかった。一応、気になるから理由は明日の卒業式が終わるまでに聞こうと決めて、クリップを鞄にしまった。今日は卒業式前日だし、北岡さんはずっと誰かと一緒にいるだろう。そこに話しかけに行くのはハードルが高いから、明日になってから聞くしかない。クリップを拾っただけなのに、思わぬ事態になってしまった。

 翌日、昨日まで明るくて目立つ茶色だった髪を、いっそう目立つオレンジにしてきた北岡さんに話しかけることは叶わなかった。高校3年間、成績も存在感も凡人以下としか言いようがなかった私では、髪色が変わったこともあってか普段より注目の的になっていた北岡さんに、クリップなんてちっぽけな話題のために話しかけに行くことはできなかった。偶然聞こえたクラスの人と北岡さんの会話でわかったのは、北岡さんが大学じゃなく美容師の専門学校に行くということだった。

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