第5話 襲撃

 不寝番を当日に言い渡される事は普段は無い事だった。

 断る事も出来ず、フィオナは王太子の部屋の外に立っていた。遅くまで開かれていた夜会も終わり、王城の中は、今はひっそりと静まり返っている。時折見回りの近衛騎士が王城内を警邏する足音が響くが、それが過ぎるとまた漆黒の闇の帳が深く王城を包み込む。

 今日は、リュカは不寝番では無いと聞いていたから、彼はもう寮に帰っている筈だ。否、もしかしたら、もう帝国へ出発するまで日が無いので、準備や諸々の用事の為に伯爵家のタウンハウスへ帰っているかも知れない。『また明日』と言っていたが、不寝番を終えて朝方退勤すると、すれ違いになるかも知れないなと、ぼんやりとそんな事を考えていた。その時。

「……?」

 何か、首筋の産毛が逆立つような嫌な気配を感じて、フィオナは不意に廊下の窓に顔を向けた。

 王城の後宮の西には、エドワード王太子が住まう此処、『日の宮』があるが、その向かいには、レオナルドが住まう『月の宮』がある。フィオナの感じた嫌な気配は、その月の宮から感じた。

「兄様……?」

 神経が敏感になっているのか、リュカの気配がとても強く感じられた。もう王城からは辞している筈の時間なのに。

----リュカも不寝番を言いつけられたのだろうか?

 今日は、帝国の使者も交えての夜会だったため、その他の国々の使者もその多くが王宮に留まり、部屋を与えられていた。念の為に不寝番を増やした可能性もある。

----それにしても、この気配は何だろう?

リュカの気配が、やけに交戦的であり、それでいて何か諦念めいている。


 まるで、『死』を覚悟しているような。


 気が付いた時、フィオナは、東の宮に向かう渡り廊下を目指して走り出していた。頭の片隅には、持ち場を離れる際の注意事項や連絡相談等の手順が淡々と流れていたが、それらをする暇が無い事はわかっていた。


 間違い無く、レオナルドの部屋で何かが起こっていた。そして、その為にリュカが死を覚悟しているようだった。

 襲撃に太刀打ちし、間違い無く現在王城内で最強の実力を持つリュカが、死を覚悟するような相手なら。

----不寝番は常に二人一組。相方は既に動けなくなっている可能性が高い。

 今は、たまたまウィリアムが王太子に呼ばれて部屋の中にいた為にフィオナは廊下に一人だったが、基本は二人一組での行動が厳守だった。複数での襲撃の可能性も高い。

 走りながら、徐々に失われていくリュカの気配に、フィオナは今まで感じたことの無い焦燥感を感じた。

----何故王宮はこんなに広いの?!

 何故、レオナルドの部屋はこんなに遠いの?!

 何故、私はレオナルド付きの護衛騎士じゃないの?!


 リュカの独特な神聖力の気配が、感じ取れない程に小さくなり、やがて消えた。


 信じたく無く、フィオナは走る速度を落とさなかった。僅かな音も無く、しんと静まり返った薄暗い廊下に、フィオナの足音だけが甲高く響いた。レオナルドの部屋の前には、一人の騎士が倒れており、口に手を当てると、気を失っていただけだと分かった。静かな部屋の前で、フィオナは音を立てないように、それでいて素早くドアを開け、部屋の中へ滑り込んだ。部屋の中は真っ暗で、音は何一つなく。本来ならランプで照らされるべき寝室の寝台の周辺も真っ暗だった。やがて目が闇に慣れてくると、寝台の周囲のカーペットが、やたらと黒く歪な模様を刻んで見える。回り込むと、寝台の奥の壁にもたれた状態で、胸を差し貫かれて、壁に縫い付けられた銀髪の男が虚な瞳を上方に向けたまま座り込んでいた。

「っ……リュ…………」

 口から悲鳴が上がりそうになり、まだ襲撃した者がいるかも知れないのだと自分に言い聞かせる。両手で口を強く抑えて悲鳴を上げないように。しかし、レオナルドの姿を探さなければと頭ではわかっていても、視線は、目の前のあまりにも無惨な、血溜まりに座り込む姿から離せなかった。


----襲撃者がまだここに居たとして、私を殺したとしても、何も問題は無いわ。


 はらはらと留めなく涙がこぼれ落ちるのを、フィオナは止めなかった。両手でそのまだぬくもりの残る頰を包み、力無く肩に首を傾ける頭を抱きしめる。

 生まれてから一度も失ったことの無いリュカの気配はもうこの世界の何処にも感じられない事から、リュカの生命はもうここには無い事が、フィオナには痛いほどわかっていた。

自分と同じ深い紫の瞳には、今はもう何も映ってはいない。

「リュカ……」

かつて兄だった男の頬を、フィオナの瞳からこぼれ落ちた涙が濡らし続けていた。


----リュカ。リュカ。リュカ。リュカ。リュカ…………。


「フィオナ!! レオナルド!!」

 大きな音を立てて部屋に駆け込んできたのは、後宮の西の日の宮にいるはずのエドワードとウィリアムだった。

 壁に縫い留められたリュカを抱き締めて、声も立てずに泣き濡れていたフィオナは、ウィリアムが壁から剣を抜いてリュカの身体が自由になると、力無く倒れて来るその身体を掻き抱いて静かに泣いた。

「この場所は……」

 リュカが座り込んでいた血溜まりの床のカーペットをウィリアムが引き剥がすと、知らなければ見落としてしまいそうな、うっすらとした線が見えた。膝をついた状態で、ウィリアムは丁寧に、生命の失われたリュカの身体とフィオナに気遣いながらずらした。床の線に沿って力を込めると、重い床石がわずかに動き、駆け付けた近衛騎士達と共にそれを持ち上げた。床石の下の僅かな空間には、膝を抱えるようにして身を屈める男が1人。弾かれたように顔を上げたのは何枚か手の指の爪が剥がれ、指先が血塗れたレオナルドだった。内側からは開けられない床石に指をかけて開けようとして、爪が剥がれたようだ。泣き腫らした顔が、ウィリアムの手に持つ明かりに照らし出された。

「リュカがっ……リュカが………!」

 騎士達によって抱え出されたレオナルドは、床の血溜まりに気がつき、今はフィオナに力無く抱えられているリュカに焦点を定めた。

「レオナルド! 一体何があったんだ?!」

 エドワードが声を上げるが、レオナルドの耳には入っていないようだった。

 背後では、『周囲に不審な者はいない』『月の宮に出入りした者を確認』など、ウィリアムが調査を着々と進めているのが聞こえる。リュカを抱き締めたままはらはらと涙を流すフィオナに、レオナルドはフィオナごとリュカを抱き締めた。

「リュカ! 目を開けてくれ! リュカ!」

次第に冷たくなるリュカを胸に抱き締めて微動だにせず泣き続けるフィオナ。その胸の辺りにあるリュカの顔を覗き込みながら、レオナルドは狂った様に叫んだ。

「殿下。恐れながら、ハドクリート卿はもう……」

 フィオナとリュカからレオナルドを引き離そうとする騎士を払い除け、レオナルドは二人ともを抱き締めた。

「部屋のっ……外にっ、気配がするからって……っリュカがっ……」

 嗚咽を漏らしながら、レオナルドが説明をする。リュカが万が一を考えて、レオナルドを隠してくれた事。侵入者とリュカが何かを話していた様だったが、くぐもって聞き取れなかった事。レオナルドを守る為に、リュカが石造りの隠し扉の上で闘った事。

「ウィリアム。日の宮の私の部屋の隣が今は空いていた筈だ。レオナルドを連れて行き、医師を呼んで指先の治療等をさせろ。今夜起こった事は秘匿されねばならない。私は陛下の指示を仰ぐ為に今から向かう。この事に関わった騎士、侍従、その他全ての人間を一時内宮に集めろ。……フィオナ」

 リュカの亡骸を抱き締めたままのフィオナに、エドワードが声をかける。

「帝国に嫁ぐレオナルドを狙った襲撃者が誰なのか、何の目的でレオナルドを狙ったのかがわかるまで、リュカの死は公には出来ない。亡骸は秘密裏に王宮の裏から伯爵邸に運ばせる。兄と共に、今夜は伯爵邸に帰るといい」

 ぼんやりとエドワードの言葉を拾い、理解に努める。

----兄は……リュカは、死んだ。

 だが、理由が分かるまでは、レオナルドが狙われた事、それによってレオナルドの護衛騎士が殺された事は隠されなければならない。

 王子の護衛とは、王族の命を守るということは。

 国交に関わる問題であれば、その死さえ、秘匿される。

 わかっている。

 わかって、騎士にはなったのだから。

「……レオナルドを守る事が出来て、兄も本望だったでしょう。今夜、また何かがあってはいけないので、レオを……殿下を守る為に、私もレオナルド殿下の側に仕える事をお許し下さい」

 兄が守った命を、とり零さないために。

 去ったと思って油断したところで寝首を掻かれない為にも。

 フィオナの願いを聞いたエドワードは、痛ましげに顔を歪め、首を横に振った。

「私達を信頼しろ。必ずレオナルドを守る。もう今夜、レオナルドの命を脅かすような事は絶対に無いとお前に約束しよう。だから、お前は……リュカのそばにいてやれ」


 半ば無理やりに家紋の無い馬車にリュカの亡骸と共に押し込められ、帰途についた。

リュカとフィオナがハドクリート邸に着いたのは、長い夜が終わり、空が白々と明けてくる頃だった。

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