第7話 タガウス・ビルケンバウムという男

 翌朝。


 空には薄灰色の分厚い雲が広がっており、どんよりとした空気が漂っていた。


 道端に咲いている名前も知らない紫色の花も、心なしか元気がなさそうに見える。


 サシャは右手でニコルと左手でカノンと手をつないで、タガウスさんの住む家に向かっていた。


 ニコルとカノンの顔を歩いている最中に見ることはできなかった。


「ここよ、今日からここがあなたたちの住む家になるの」


 二人にそう説明しつつ、サシャは改めてその豪邸を見上げる。


 街の一等地に立つその家は三階建てで、外壁に汚れひとつついていない。


 窓の数から考えても、ざっと十部屋以上はありそうだ。


「すごい大きいねぇ、何部屋あるんだろう」


 顔を上下左右に動かしていたニコルが、サシャを見てにかっと笑った。


 姉とつながっていない左腕では、サシャが何日も夜更かしして手作りし、誕生日プレゼントとして渡したネコのぬいぐるみを抱きかかえている。


「……私は、あんまり好きじゃないかも」


 不満そうに唇を尖らせたカノンが、足もとにあった小石をこつんと蹴飛ばした。


「もう、そんなこと言わないの。せっかく面倒を見てくれるんだから、挨拶はしっかりしなさいね」


「……うん。わかってる」


 渋々といった感じでうなずくカノン。


 サシャはため息を飲み込んで笑顔を浮かべた。


「じゃあ、いきましょうか」


 両隣にいる二人がうなずいたのを確認してから、サシャはキュッと口を結び、タガウス邸の扉をノックしようとした――が、二人とも手を放してくれない。


 これじゃあノックができないと、さっき飲み込んだため息を今度は吐き出してしまった。


 それと同時に目から涙がこぼれ落ちそうになったが、それだけはなんとか我慢した。


「もう」


 サシャは一度上を向いて、鼻をすすってから。


「どうしたの、二人とも。これじゃあいつまでたってもノックできないでしょ」


「……だって、やっぱり」


「サシャじゃないか。こんなところでなにをしてるんだ?」


 ニコルがうつむきながら口を開いたとき、後ろから声がした。


 振り返ると、そこには困惑気味のタガウスが立っていた。


 あれ、今日この時間にうかがうと約束していたのにどうして外出を? とサシャは思ったが、商人は忙しいのだろうと自分の中で結論づける。


「お久しぶりです。タガウスさん」


 サシャは軽く頭を下げ。


「ほら、ニコルとカノンも、ご挨拶をして。今日からお世話になるんだから」


「……」


 無言でうなずいた二人は、姉のサシャの足に体を寄せたまま、ぺこりと頭を下げた。


「もう、ごめんなさい。タガウスさん。ニコルもカノンも緊張しているみたいで」


「ははは。気にする必要はないよ。二人はまだ幼いんだから」


 頬を緩めたタガウスは、しゃがんでニコルとカノンを交互に見る。


「はじめまして。ニコルくん。カノンちゃん。君たちのお姉さんと結婚することになりました、タガウス・ビルケンバウムと言います。これから仲よくしてくれると嬉しいです」


 タガウスはニコルとカノンの頭をなでる。


 二人はいやがるそぶりこそ見せなかったが、顔はひきつったままで、まだまだ警戒心を解いていない。


「ははは。そりゃ緊張するよね。さて、今日はこれから、ささやかだけど三人の歓迎会をしようと思っていたんだ。さあ、三人ともどうぞ中へ」


 タガウスに言われるがまま、三人は屋敷の中に足を踏み入れる。


 当然といえば当然なのだが、サシャたちのぼろ屋よりも広い玄関が現れ、


「すごい……」


 とサシャは純粋に驚いた。


 正面には高そうな絵画が飾られおり、足元には艶やかに輝く真っ赤な絨毯が敷かれている。


 左手にある階段の手すりは金色にコーティングされており、階段を上ったところには銀色の鎧が設置されていた。


「あはは、驚いたかい? こんなの大したことないから」


 謙遜しているものの、タガウスは驚いている三人を見てどこか嬉しそうにしている。


 そこへ白髪の執事が歩み寄って、タガウスになにやら耳打ちした。


「すまない。どうやら食事の準備が少々遅れているみたいだ。ああ、料理長を責めないでくれよ。彼もどうやら張り切りすぎてしまったらしい。その分、料理には期待してくれとのことだ」


 それから、タガウスはサシャたちを応接室に案内する。


 黒光りしている二つのソファの間には、これまた高そうなローテーブルが置かれてあり、壁際には金色に光る調度品がいくつも飾られていた。


「みなさま、お飲み物をお持ちいたしました」


 さきほどの執事が人数分のコップをローテーブルの上に置いてくれる。


 サシャにはジャスミンティー、ニコルとカノンにはフルーツジュースだ。


「すみません。いただきます」


 サシャは執事に頭を下げてから一口いただく。


 ジャスミンの優雅な香りが鼻に抜けて心地よい。


 こんなにおいしい飲み物ははじめてで胃が驚いている。


「うわぁ、すごくおいしいです」


「お気に召していただけてなによりでございます」


「お姉ちゃん! 僕のもすごく甘くておいしいよ!」


「私のも私のも!」


 あまりのおいしさにニコルとカノンのテンションも急上昇する。


 ごくごくとジュースを飲む姿に、サシャは安堵を覚えつつジャスミンティーをもう一口――――――。


「……あ、れ」


 視界がぐらんと揺れた。


 意識が朦朧としはじめ、頭を押さえながらたたらを踏み、壁に肩からぶつかるようにして座り込む。


「……な、に……いき、なり…………」


 持っていたコップが床に落ち、絨毯の上に飲み残しのジャスミンティーが広がっていく。


「ニコ、ル。……サシャ……!」


 二人がいた方を見ると、彼らはすでに床の上に倒れ意識を失っていた。


 声が出ないので、二人の名前をもう呼べない。


 すぐにサシャもうつ伏せに倒れてしまう。


「ふっ、本当にバカなやつらだ」


 意識を失う間際、サシャが視界に捉えたタガウスは黒い笑みを浮かべていた。

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