第6話 それが私の幸せ
サシャの家は、幽霊が出そうなほどおんぼろの家だ。
この家に帰ってくると必ずサシャの心には靄がかかり、自分以外のなにかに体が乗っ取られてしまったかのような感覚に陥る。
……いや、その【本当の自分ではない】という感覚は、常に身にまとっているような気がする。
だからなのだろうか、『殴られ屋』で誰にも見せてこなかったドSの一面を解放できて、いまはいつもより心が軽かった。
「……ま、私を解放することはもうないんだけどね」
渇いた自嘲がサシャの口からこぼれ落ちていく。
サシャはもうドSの一面どころか、これからサシャ・クリスタプルという人格自体を消して生きていくのだと、心に強く誓っている。
だって、サシャには自分以上に大切なものが、守らなければいけない家族があるから。
自分を捨てることくらい、どうってことない。
けど、でも、だけど。
苦しい、つらい、いやだと思いたくないのに、ふとした瞬間にどうしても思ってしまう。
弟がいなければ。
妹がいなければ。
両親が死ななければ。
私がこんなに苦労することはなかったのに。
姉として産まれなければよかったのに。
そんな無責任さが頭をよぎるたびにサシャは自分の愚かさを責めることになる。
全てから逃げ出したいと思ってしまう弱っちい心なんか、どこか遠くに捨て去ってしまいたい!
「またお姉ちゃん失格だよ……」
将来を悲観してぴきぴきと硬くなってしまった表情筋を両手でほぐし、弟たちを安心させる笑顔を作ってからサシャは家の扉を開ける。
「ただいま! ニコル、カノン、遅くなってごめんね」
「「おかえり! お姉ちゃん!」」
サシャが扉を閉め終わる前に、弟のニコルと妹のカノンが駆け寄ってきて、サシャの足に勢いよく抱き着いた。
「ちょっと二人とも。お姉ちゃん動けないでしょ。せっかくもらってきたパンの耳が落ちちゃう」
「ええー、今日もパンの耳なのー?」
ニコルが不満げに唇を尖らせる。
「私もいいかげんお肉食べたいー」
カノンもぽかぽかとサシャの足をたたく。
「わがまま言わないの」
サシャはニコルとカノンをなだめるべく、頭を優しくなでた――瞬間、達道から頭をなでられたことを思い出した。
いきなりだったのですごく驚いて、なんだか心がむずがゆくて、久しぶりの感覚で。
お母さんの柔らかななで方も、お父さんのちょっと乱雑で強めななで方も、サシャは大好きだった。
でも、両親が死んでしまったせいで、サシャの頭をなでてくれる人はもうこの世にはいなくなってしまった。
「……そっか」
サシャは思う。
私はあのとき懐かしさを感じていたから、そわそわ落ち着かなかったのだと。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
「え? あ、いや……ううん。なんでもないの」
首を傾げるニコルに微笑んでから、サシャは嬉しい楽しいって感情を最大限詰め込んだ声で話す。
「ニコル、カノン。実はね、こうやってパンの耳を食べる生活も、今日で最後なのよ」
「えっ?」
とニコル。
「どういうこと?」
とカノンもつづく。
「あのね、お姉ちゃんはね」
サシャはしゃがんでニコルとカノンを同時に抱きしめながら。
「結婚することにしたのよ」
二人の体が少しだけ固くなったのが、触れている腕に伝わった。
いきなりのことで困惑しているのだろうとサシャは結論づける。
……でも、前から決まっていたことなのに、どうして前日にしか言い出せなかったのだろう。
その理由を、サシャは考えないことにする。
「その人はね、タガウス・ビルケンバウムさんって言ってね、あなたたちの面倒も見てくれるって言ってくれるような、優しい人なの」
小太りで、鼻が少し高くて、目はぎょろっとしていて、正直言ってタイプではないけど、彼は有名な商人だ。
こんな貧乏人と関わる利点なんかないのに、私が彼と結婚するだけで、他にはなにも差し出すことなくニコルとカノンを救ってくれる。
「お姉ちゃんが結婚したいと思うほどの人なの。本当なのよ」
なんて私は出会いに恵まれているのだろう、と思うことでサシャは胸の痛みを押し殺す。
普通に生きてたんじゃ、こんな幸運、きっと訪れない。
これからの生活は、人生のエピローグみたいなもんだと思えばいいだけ。
自分にメインストーリーなんてあったのかは考えないことにして。
タガウスと結婚したあとの生活に煌びやかな瞬間なんてないだろうから、ずいぶんと薄っぺらい、もしかしたら一行で終わる程度のエピローグになるだろうな、なんて悲観してはだめなのだ。
「本当、なのよ」
サシャは汚れでいっぱいの天井を見上げる。
より一層強くニコルとカノンを抱きしめながら、泣くのだけは必死で我慢する。
この二人が苦労せず、我慢せず、どんなわがままも叶えられるような幸せな人生を歩めるならそれでいい。
タガウスさんみたいな人と結婚できるなんて、本当に、だって、タガウスさんはニコルとカノンの面倒まで見てくれるような……。
「素敵な人なの」
その瞬間、自分が素敵と口走った瞬間、サシャの脳が勝手にあの真っ赤なパンチンググローブを思い出す。
ああ、ああ、私はっ、本当はっ。
叫んで、叫んで、泣きわめきたい!
「本当に優しい人なの」
でもニコルとカノンがいるから、そういう弱さに蓋をできる。
強がりを強さに変えて生きることができる。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「え?」
ニコルが不安そうに見上げていたので、サシャは思わず情けない声を漏らしてしまった。
いけないいけないと、お姉ちゃん然としたきりっとした声音を意識し直す。
「大丈夫って、なにが?」
「なにがってわけじゃないけど」
ニコルはサシャにギュッと抱き着き。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「私、パンの耳、好きだよ」
カノンもニコルにつづいて、サシャにギュッと抱き着いた。
サシャが胸の中に閉じ込めると誓った感情が暴れ出す。
どんどん呼吸が短くなっていく。
「ニコル、カノン」
愛する二人の名前を呼ぶ。
二人の体から伝わってくる振動が、サシャの覚悟を壊そうとしてくる。
やめて。
もうやめて。
サシャはニコルとカノンを抱きしめる。
これ以上はもう、私の覚悟が揺らいでしまうから。
あなたたちを貧乏に巻き込みたくないから。
「あなたたちの幸せは、お姉ちゃんの幸せ。二人が不自由なく、笑って暮らせることが、お姉ちゃんの幸せなのよ」
その夜、ニコルとカノンを寝かしつけたあと、サシャは声を上げずに泣いた。
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