第8話

 飛燕ひえんが居たのは、街の外れにある大きな工場の中だった。彼は紫苑しおんに気付くと、不思議そうに名を呼んだ。


「紫苑?」

「ーーーー……」


 彼は紫苑に近くと、無意識に膝を曲げて目線を合わさる。黙ったままの彼女に、飛燕は優しい表情を浮かべた。


「どうした?紫苑」


 紫苑。その名を彼から呼ばれるたびに、なぜだか泣きそうになる。

 こんなに優しい表情を向けてもらえていても、自分は彼の事を思い出せない。

 同じだけの想いを返したいのに、それが、出来ない。

 それが、とても……ーー寂しい。


菖蒲あやめは一緒じゃないのか?」

「……菖蒲さんは夕飯の食材を買いに街に行かれました。私は橘さんに頼まれて、設計図を届けに。フレアさんと」

「お、サンキュー。今ちょうど造り終わったとこだったから、助かった」


 飛燕は紫苑の隣をちらと見た。


「てか、よくここまで来れたな。フレアの道案内じゃ、逆に迷子になりそうだけど」


 それを聞いて紫苑は、同じようにちらりとフリージアを見る。

 2人に見つめられた彼女は、袖口そでぐちを口元に当ててフフッ、と笑った。


「実は一度迷って、街にいる菖蒲に道を聞いてから来たの」

「なるほどね」


 飛燕は納得したように頷いた。紫苑から設計図を受け取ると、そのまま出口を指差す。


「設計図ありがとな。フレアの案内じゃ不安だろうし、家まで送るよ」

「いえ、そんなことは……」

「あ、でも、まだ仕事残ってるから、そこら辺に座ってちょっと待ってて」


 そう言い残し、飛燕は仕事へと戻ってしまう。フリージアにも座るようすすめられ、紫苑はようやく椅子に腰を降ろした。


「紅茶くらいしかないのだけれど、紫苑さんは紅茶、大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

「そう。なら良かった」


 にこりと笑って、フリージアは紅茶を取りに一度奥へ入っていく。しばらくして、2つのティーカップを両手に持って戻って来た。


「あ、手伝いまーー」


 す、と言い終わる前に、フリージアは何もない地面でつまずく。きゃ、と可愛らしい声と共に、ティーカップがちゅうった。紫苑は転びそうなフリージアに手を伸ばす。


 ーーーーしかし、横から伸びてきた腕ががしりと彼女を支えた。


「ーーーーあ、っぶね」


 しっかりフリージアを支えながら立たせてやると、飛燕は半眼はんがんになって彼女の額を手のこうでポカッと叩いた。


「何してんだ、お前」

「……ごめんなさい」

「ほんとにな」


 パリンッ、とれてしまったカップの音を聞いて、飛燕は紫苑を見る。


「大丈夫か?紫苑。危ないから触るなよ」


 こくん、と紫苑は頷く。心配そうな顔をする彼女に、飛燕は少し表情をゆるませた。


「気にすんな。フレアのドジはいつもの事だから。紫苑も、フレアには何も頼まないほうが良いぞ。こいつドジだから」


 紫苑がフレアに視線を向けると、彼女はにこりと笑った。


「私、裁縫さいほう以外はほんとダメなの。心配させてしまってごめんなさい。紅茶は、飛燕がれ直すから」

「は?」

「だって、私が煎れ直したら、同じことの繰り返しになってしまうでしょう?」

「お前、マジで……」


 はぁーと飛燕はため息をついて奥へ下がっていく。


「逆にお前が紅茶煎れられたのが奇跡だわ」


 ぼそっと呟いたそれは、紫苑の耳にはハッキリと聴こえてきた。なるほど、確かにそうなのかもしれない。

 割れたカップを片付け、紅茶を煎れ直した飛燕は、再び仕事に戻っていく。

 紫苑はそんな彼の背中をぼんやりと眺めていたーーーー。

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