第14話 【葉っぱの雨】
その声がやむと同時に羽音が響いた。
二羽のカラスが、銀杏の枝から羽ばたいたのであろう。
優吾は、頭上からしきりに降ってきた二匹の声が、霧雨のように顔面に降り注いだ後、それが羽毛のように柔らかくなり、顔面全体を包み込んでくる感覚を味わった。
頬も、ひたいも、あごも、鼻先も温かい。
そのうちに、顔全体が発光して、ぽっと明るみを帯びていく。
暗闇の中に優吾の顔が白く明るく浮かび上がり、やがてその明かりは身体全体を包み込みはじめる。
不思議な時間だった。
いま、何が起こっているのだろう。
夢を見ているのだろうか?
ふいに、優吾は目を開けた。
瞬間、頭上からおびただしい数の葉っぱが落ちてきた。
いつの間にか小屋の屋根はすっかり無くなっている。
その代わりに空を埋め尽くすような葉っぱの雨は、ますます盛んに降ってくる。
優吾は呆然とそれを見つめていた。
黄色い葉。……これは、もしかすると……
頭上に手をかざし、降ってきた葉っぱを確かめるように一枚つかんでみる。
やはり、そうだ。
確かに銀杏の葉だと優吾は思う。
それにしても何という季節はずれだろうか。
今はまぎれもなく桜の咲く春の季節だ。
それなのに今年の春は、銀杏が紅葉しているなんて。
葉っぱの雨は、やむ気配がない。
小屋の中へ、しきりに黄色い葉が降り積もり、優吾の身体は、もうすでに銀杏の葉に埋もれている。ただ、かすかに顔の部分がまだ隠れていずに、目や鼻やひたいや口だけが、葉っぱの外に出ている。
音もなく、まんべんなく、頭上から、葉が落ちてくる。
優吾の口が埋もれていく。
葉は降りやまず、しだいに優吾のひたいが隠れていく。
やがて、空気に触れている部分は鼻と目だけになった。
そのうちに、頭上から降る葉の量がだんだんと少なくなってきた。
優吾は、視界が広がっていくのを感じた。
その時、葉の中に埋もれそうになった二つの目を大きく見開き、優吾は空を見上げた。
夜闇に、銀杏の梢の影がぼんやりと浮かんでいる。
いつもの光景だった。
ホッと胸をなで下ろし、優吾は、ふと目を閉じた。
その瞬間、優吾はふいに、平衡感覚を失った。
身体が何度か突拍子もなく回転して、宙に浮かんだ気分になった。
気がついたら、優吾は、遥か空の上に来ていた。
見下ろすと、眼下には灰色の厚い雲の層が広がっている。
その間に宙に浮いた優吾の身体に容赦なく強風が吹きつけてくる。
優吾は思わず、吹き飛ばされそうになるのを必死にこらえようとする。
下を見ると、雲の層が風に流されるたびに、風がうなり声をあげ、渦を巻いている様子が見える。
絶え間なく、空を揺するような音をあげ、雲は乱れながら流れていく。
そんな状態は、普通の人間なら長い間耐えられるものではない。
優吾は心から、雲のずっと下まで降りて行きたいと願った。
その時、そう、それは一瞬だった。
雲がぐんと優吾に向かって一気にせまって来たのだ。
瞬間移動という移動技術がもしこの世に存在するなら、今のような感覚に間違いあるまい。
気がついた時には、優吾は物凄い勢いで雲の中を飛んでいた。
いや、飛ぶというよりはまっ逆さまに、落ちていたのだろう。
吹き上がる風の中を、震えるように冷たい靄の中を、全速力で落ちていった。
靄が晴れ、雲を抜けきった時、優吾は遥かな夜空の広がりの中に、音もなく、投げ出された。
その後、優吾は数百メートルも繰り返し宙を大きくバウンドしながら、やっと、夜空の一点に止まることができた。
こんな思いは二度とごめんだ、と優吾は心底思う。
たまらず、両手で顔を覆(おお)う。ようやく呼吸が整ってきたようだ。
何という経験だろう。
たとえこれが夢だとしても……それにしても、きつすぎる冗談じゃないか。
夜空の一点に浮かんだまま、優吾は自分が星にでもなったような気がした。
でも、すぐにそんな考えは打ち消された。
顔を覆った両手を外すと、すぐ眼下に見えたのは、人気のない景色だった。
そう、優吾は上野公園の頭上50メートル辺りに浮かんでいるようだった。
優吾は何気なく公園の中を眺めてみた。
シンと静まり返って、誰一人歩いていない。全く無人のようだった。
そればかりか、優吾は公園を眺めているうちに、それが見たこともない異様な光景であることに気がついた。
公園内の木という木が、まったく葉をつけていないのだ。
そればかりか、木々の様子はどこか変だった。
倒れているものや、幹がねじれたり折れ曲がっているもの、あきらかに朽ちて折れてしまっているもの、焼けて炭になった木々もある。まるで山火事の後の荒廃とした光景のようだった。
優吾はふと、空に浮いたまま、動物園のほうに目を向けた。
しかし、それらしきものは、見当たらない。
入場門も動物たちの小屋も、跡形も無くなっている。
これはいったいどう説明がつくのだろうか。
たとえ夜だとしても、見間違えるはずはない。
何しろお園全体が木々を失い、ハゲ山のように、むき出しになっている。
地上50メートルの空の上から、優吾はゆっくりと真下に降りていった。
自分の意志で降りているのだろうか。それは優吾にも分からない。
やがて、地面に降り立ち、辺りを見回してみると、そこは荒れ地以外のなにものでもなかった。鳥さえ近寄ってこないと思える景色が、目の前に広がっている。
いったいあのカップルで賑わっていた公園はどこへ行ってしまったのだろうか?
優吾は呆然と立ちすくむ。
〈続く〉
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