第13話 【咲カヌ桜】



〈2012年4月1日〉



上野公園と言えば、江戸時代からの桜の名所である。


春になれば、ソメイヨシノ、里ザクラ、山ザクラなどが蕾を開き、はなやかな賑わいを見せる。夜になればそれらの木々は、夜空に明るい雲のような花明かりを灯し、並木道を通る人々を夢見心地にさせる。

そのため、毎年の恒例のようにそれを目当てに会社帰りの勤め人のグループやアベック、若者連中がここへ訪れる。


しかし、今年の上野公園では、予想外のことが起こっていた。

いっこうに桜が咲く気配を見せないのだ。

今日も公園の桜並木の下を歩いた人が気がつくことと言えば、

蕾とはほど遠い小さな芽が、枝のあちこちに硬くなった状態のまま、

ときおり吹く風に揺れているということだけだった。


この道を冬に歩いたことがある人が、今日ここを通りがかったならば、

その木々の姿を見るなり一瞬、冬の光景を目の当たりに見ているような錯覚に陥(おちい)ったとしても、不思議ではないだろう。


それほど、春というには、ほど遠い、桜並木の光景だった。


今日の上野は、朝から雲一つない快晴だった。

不忍池の水も温かくなり、ボートを漕ぐカップルの姿もちらほら目につくようになった。毎日のように、TVでは、しきりに桜の開花予報を報じていた。

画面に映し出された知的な女性ニュースキャスターは、上野の桜が咲く気配を見せないことを、ここ数年の環境破壊による影響ではないかと疑問を投げかけていた。


夕方のニュースでは、『今年はなぜ、上野公園の桜が咲かないのか? 』という特集が組まれ、某大学の教授であり歴史学者として名高い白髪の老人がゲストとして招かれた。男性司会者が、歴史学者としての意見を求めると、白髪の老人は、ゆっくりとした口調でこう語った。


「今からだいぶ前になるが、明治時代に今年のように上野のお山の桜が咲かなかったことがあった。それが数年間続いた。その間にお山を中心とした上野では、色々な災いが起きたという。大規模な町の火災や、お山に落雷が落ち死傷者が出たり、動物園の飼育係がゾウに踏まれて命を落としたこともあった。それからというもの、上野のお山の桜が咲かない年には災いが起こると言って恐れられたものだ」


老人の言葉を裏付けるように、司会者は、幾つかの文献を取り上げて、

それらの災いが記してある箇所を画面に映しながら、誇張もこめた不安な声を出し、読み上げていく。それに合わせて、スタジオの観客席からどよめきがおこる。


優吾は、たまたまその時アメ横を通りがかり、飲食店の店頭に置かれたTVにふと目を止めた。そしてしばらく立ち見した。

TVに出ている老人は、しきりに今年は上野に災いが起こるかもしれないと繰り返している。その言葉を聞いた時、優吾は妙な胸騒ぎを感じた。


でも、すぐに歩き出した。ダンボールを見つけなければならない。

上野の災いよりも、屋根のない小屋で寝なければならないというそちらの災いの方が優吾には気がかりだ。やがて、ダンボールは無事に見つかり、優吾はそれを抱えてパン屋の裏のゴミ置き場に立ち寄った。ゴミ袋を漁ると、売れ残りのパンらしいものが三個見つかった。優吾はそれも持ち帰った。


不忍池のほとりに戻ってくると、向こうに見えるボート乗場に人だかりがしているのが見える。気になって行ってみると、ボート池には、8隻(せき)ものボートが浮かんでいる。それも同じグレーの作業服を着た男たちだ。

優吾はボート乗場の人だかりから聞こえてくる話し声を耳にして、すぐに今起こっている出来事を飲み込むことができた。

2時間前にボート池に浮かんでいた一隻(せき)のボートが転覆したらしいというのだ。ボートに乗っていた若いカップルは、転覆した時に一緒に池に落ちたきり、いまだに見つからないらしい。


今、懸命に捜索を続けている最中だという。

なるほど、池の中からひょっこりダイバーが顔を出した。

それがまた、水の中に消えていく。


しばらく、人混みの後ろから首をのばして見ていると、交代に3人のダイバーの頭が、あちこちの水面から現れる。なかなか池の中に落ちたカップルは見つからないらしい。


「上野公園の桜が咲かないのは、これから上野に災いが起こることを、我々知らせるための一種のデモストレーションなのかも知れませんね」


そんなTVの老人の言葉を、優吾は思い出していた。

夜になっても、ボート乗場では絶えず人だかりがしていた。


優吾は、人ごみを抜け出して、不忍池のほとりに戻り、ダンボールに密閉された小屋の中で横になった。うとうとしながら眠りかけていると、優吾の意識の中に、ときおり遠くで話している人の声が聞こえてくる。捜索は真夜中にも続いているようだ。


「ねえ。これも伝説と何か関係があるのかしら? 」


「おうよ、よくねえことは始まってるようだぜ」


「これからどうなっていくのかしら? よくないことは、あたしたちの身にも降りかかるの? 」


「そんなこと、オレがわかるか! でもよお、マタマタのじいさんはこう言っていたぜ。『たとえお園にどんな災いが起ころうとも、ジャイアントパンダがなんとかしてくれるだろうよ』ってね」


「マタマタのじいさんて、爬虫類館に住んでいるヘビクビガメのおじいさん? 」


「そうだ」


「あたしも、その話をもっと聞きたいなあ。明日にでもマタマタのおじいさんに会いにいこうよ。あんたも一緒に行ってくれる? 」


「いいぜ。でもよお、何も会いに行かなくたって、明日の夜になれば、向こうからやってくるぜ。桜の状態をリクガメのじいさんといっしょに見にくるって言ってたからよお」


「それじゃあ、明日はマタマタのおじいさんに会いに桜並木の道に行くことにしましょう」


うすぼんやりとした、霧のようなベールの向こう側から、カラスの春一郎とレイ子の声が聞こえてくる。優吾は、半分眠っている状態のまま、その声を聞いていた。


春一郎とレイ子の声は、頭の上から、シャワーのように降ってくるという感じだった。



〈続く〉

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