第10話 【忘れがたい日々 】


その日の夕方、優吾は一人で散歩に出た。


西の空が朱色に染まっている。

ホアンの家から、しばらく坂を上がって行くと、軒並が段々と、まばらになっていく。どの一軒家を覗いても、家の横には小さな畑があった。

畑は、にんじんの葉やさつまいもの蔓(つる)でいっぱいだった。


そこから更に坂を上がって行くと、広いトウモロコシ畑が見えてくる。

そこまで行くと、とても見晴らしがいい。

下の斜面には、煙突から煙を吐いたレンガ屋根が小さく見える。

レンガ屋根の向こうの高原の広がり。

その中にちらほらと見える木々や大きな巌(いわお)。

西の空に沈んでいく夕陽を眺めながら、優吾はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


そのうちに、後ろで誰かが話している声が聞こえてきた。


「どうだい、この変わり果てた姿は。この国はもう終わりだね」


「えっ。そうかな。何も変わってないように見えるけど」


「あーあ。これだから五感の鈍い奴はやだね。少しは感じろよ」


「何を? ああ、そうか。夕焼けきれいだね。まったく、いいね! 」


「これだから、メスって奴は困るんだ」


優吾は後ろを振り向いた。


ずっとトウモロコシ畑が広がっている。

人影らしいものは見えない。

ただ二羽のカラスがすぐそばの畑のなかで、クチバシを突っつき合っている姿がある。優吾は、まさかと思った。


しかし、次の瞬間には、カラスのクチバシの動きに合わせて、また先ほどの声が、聞こえてきたのだった。




〈2012年3月31日〉



優吾は、明け方に目を覚ました。


何とはなしにベッドから這い出して、動物病院の外に出る。

「幸福村」の夢を見たのは、久しぶりのことだった。

ずいぶん永い間、忘れていた。

優吾は、無意識に頭の中で、先ほど見た夢を反芻(はんすう)していた。

明け方の静かな園内をゆっくり歩いているうちに、やがて、幸福村のことは、頭から離れていった。

その代わりに思い浮かんできたのは、昨日言っていたケイコの言葉だった。


「ここでは退院は、本人の自由意志に任せることになってるの。あたしのように居たければずっと保護してもらえるし、出ていくも自由だわ。この動物園の長老のアイアイがね、人間を尊重してくれるタイプなの。それで助かってる……」


長老のアイアイか……一度会ってみたいものだな。優吾は、ふと思う。


いつまでもここに居続けるわけにはいかないだろう。

動物病院に戻り、いつものように、午前中はベッドの上で、ゴロゴロしながら過ごした。その後、昼に動物たちからの食事の配給があるはずなので、ケイコや三上さんと一緒に、動物病院の前で待っていた。

やがて、配給係がやってきた。その姿を見ると、いち早くケイコが驚いた様子で呟く。


「長老のアイアイだわ……」


全身黒毛で尻尾の長い猿が、配給用のテーブルの方に軽い足取りで歩いてくる。

すぐにテーブルの上に飛び上がり、横を向くと、すかさず手を振り上げた。

すると、その方向からヨチヨチと一匹のケープペンギンが歩いてきた。

その後ろからは、のっそのっそとシロクマがやって来る。


今日の配給は、魚だった。

炭の入った七厘をシロクマがむんずとつかんで、テーブルの上に三台並べる。

それにアイアイがマッチを片手に、火を炊(た)く。

続けてケープペンギンが、片っ端から子アジをクチバシにくわえこんでは、網の上に放り投げていく。魚の焼けるいい匂いがしてくる。


焼けた魚は、シロクマが両手でおそるおそるつまみあげて、皿の上にのせる。

ケープペンギンは、器用に首を動かしながら、網の上の魚をひっくり返すのに忙しい。火をつけ終わったアイアイは、その様子と人間たちの並んでいる姿を、交互に眺めている。


配給をもらうために並んでいた優吾は、ふと、そんなアイアイと目が合った。


そのまま数秒間、見つめ合う。


アイアイの方は、なかなか目をそらさない。

そのうちに優吾の番が来た。シロクマから渡された皿を受け取り、優吾はその場を離れた。優吾は、背中にアイアイの視線を感じていた。

でも、振り向こうという気になれなかった。


この時、優吾は明日にでも病院から立ち去ろうと決心していた。

やはり、動物たちの保護を受けるのは、心のどこかに抵抗があった。

病院のベッドに戻り座っていると、以前自分が住んでいた不忍池のほとりの大きな銀杏の木の事が気になりだした。


大丈夫だろうか。

あそこは住み心地が良かったから、もうすでに他のホームレスの縄張りにされていないとも限らない。誰かがあそこへ引っ越さない限り、優吾がここに運ばれてくる以前のまま、わずかな持ち物やダンボールは、あそこに置いたままのはずだった。

銀杏の木の下に、服も、食器も、画材道具もそのまま置いてある。

盗まれないとも限らなかった。上野公園のホームレスたちのルールでは、公園内に置いてあるものは皆、忘れていったものと判断するのは当たり前のことだった。

あの場所を他の者に奪われたくはない、そう思った時、今夜ここを出ようと決心した。


さっそく優吾は、そのことをケイコと三上さんに伝えにいった。

この時にはすでに三人は、仲の良い友達になっていた。

たった5日間の間に、不思議なほど、三人は打ち解けていた。

おそらく三人とも、死にかけていた所をここへ運ばれてきたという同じ境遇にあったためだろうか。


夕方、三上さんの個部屋に三人が集まった。


「そうかあ、優吾さん、もう行っちゃうんだ」


ケイコが下を向いて呟いた。


「そうですよ。いつまでもここにお邪魔になるわけには、いかないですよ。いつまた、他のホームレスが運ばれてくるか分からないですし。こう言っては変ですけど、やはり人間が動物たちに養われているのには問題があります」


優吾が答えるわりに、横から三上さんが口をはさむ。


「あら、どうして? 」


ケイコが不思議そうな顔をして、三上さんを見る。


「だって、それじゃあ、まるで『猿の惑星』みたいじゃないですか。このままいくと、きっと最後には、すべての人間が動物たちに支配される結末になるんじゃないですかね」


三上さんは、優吾とケイコの顔を心配そうな顔をして、交互に見る。

かつてサラリーマンだった三上さんは、リストラされてからというもの、

極度に心配性になってしまい、困っているのだという。


「ほーら、また、三上さんの心配癖がでた」


ケイコは笑いながら、三上さんを鉄砲で撃つような真似をしてみせる。

その後、深いため息をつくと、


「結局はさあ、なるようにしか、ならないんじゃないかな。もし『猿の惑星』みたいに人間たちが動物たちに支配される世の中になったとしても、それはそれで自然な事なんじゃないかな? 優吾さんはどう思う」


ケイコが優吾の方を見た。


「そうだな。あながち動物たちも悪い奴らじゃないよな。こうして俺たちに食事を与えてくれているわけだし。それも自分たちの餌を減らして半分は俺たちみたいなホームレスに分け与えてるんだもんな。まるで神様だよ。『猿の惑星』の世界も実際にそうなったらそうなったで、ぜんぜん面白い世界かもよ」


自然に優吾の口もとから、笑い声があがった。

同時にケイコも三上さんも吹き出した。


「これはいい、傑作だ。それなら『猿の惑星』の世界が実現した時のために、今から動物たちに取り入って、家来にでもしておいてもらわなきゃあ、損だよね」


三上さんが笑いながら言う。ケイコもそれに応じて、


「あたしも、姫の座をこれから奪うために努力しなくちゃ! 」


二人の目に涙が浮かんでいる。

優吾も笑っているうちに目元がほころんだ。

どうしたのだろう。涙腺が弱くなったのだろうか。


涙が零(こぼ)れてくる。


たった五日間だけど、三人で過ごした日々は、優吾の中で、忘れがたいものとなった。



〈続く〉

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