第8話 【氷河の洞穴】


いつの間にか、優吾の身体は元の人間の姿に戻っている。


氷の上に乗って、自分を抱きしめるような恰好で優吾は寒さをこらえようとする。

ふと、顔を上げると、群青色をした空の上には、ねじ曲げた針のような三日月が上がっている。優吾は、目を大きく見開きながら、身体をぐるりと一回りさせて、この寒気から逃れる避難所を探す。3周回ったところで、立ち止まる。


10メートルほど先の氷河にかなり大きな穴が開いているのが見える。

優吾はそこへ向かった。


わずか10メートルの間に、気力が底をつきそうになる。

入口にたどり着くと、穴の中を覗いてみる。

穴は、鯨が口を開けたぐらいの大きさだった。

そこから少しずつ円の中心を狭めながら、地下へと続いているようだった。


優吾は、ためらわず穴に入っていく。

薄暗かった入口から、段々と中へ入っていくと、不思議なことに明るくなってくる。

氷でできたトンネルの壁や天井が、白みを帯びて内部を明るく照らしている。

人が並んで二人入ることのできる大きさの穴は、斜めにずっと先まで続き、下っていくごとに、ますます内部が明るくなっていくようだった。


両手がかじかんでいる。

優吾は、さかんに両手をこすりながら前かがみになり、歩いていく。

頭がぶつかりそうなくらい天井は低い。


何のために僕はこんな所を歩いているのだろう。

優吾の頭にふと、そんな考えが過(よぎ)る。


何のために?

何のために生まれてきて、何のために生きていくのだろう?

20代初めの頃、優吾は、こんな考えに取りつかれた時期があった。

それは熱病のように優吾を襲い、今まで優吾の身内に潜んでいた自尊心をズタズタに引き裂いて行った。


いくら探しても見つからない。見つからない答えを、きっとあるはずだと探しているうちに、何度も気が遠くなっていく。


俺には、結局、生きる意味などないのだ。


そんな無目的の状態のまま、中途半端な思考を繰り返しながらフリーターをして過ごした20代の数年間は、あっという間に過ぎた。


今でこそ気にならなくなったが、その時は、仕事そのものに、あるいは日常の1コマ1コマに、そして自分という存在に、また1分1秒に、意味が与えられないで過ごすことが耐えがたかった。無駄なことに時間を費やすのが嫌だったのだ。


生きている意味が欲しかった。

最近になりようやく、自分自身の生きる意味に気がついている人間など、ごく稀(まれ)にしかいないことに気がついた。それに気がついたら、だいぶ楽になった。

そして、もう大上段に構えるのは、やめた。


極度の寒気のためか、途方もなく長いトンネルを歩いているような気がした。

何度も過去の記憶や、空想や、幻覚のようなものが優吾の頭を埋めた。

だが、頭をめぐるそれらの現象は、かえって優吾を、トンネルの先に導いていく役割を果たした。


気がついたら、行き止まりだった。

優吾は過去の記憶の断片から、一瞬にして、この世界に呼び戻された。


その瞬間、もしも優吾の胸の中を覗いたなら、ようやく長い旅を終え、人生を閉じようとする老人の心の中に芽生える一種の刹那の感情が蠢いているのが見えるだろう。


いま、優吾は大きな洞穴の中にいる。


改めて見回してみると、壁がぐるりと円く繋(つな)がり、天井も均一に円を結んでドームの様相をしている。


優吾はふと、足元に何かの気配を感じた。

唾を呑(の)み込み、目が釘づけになる。

一歩、二歩と後ずさっていく。

氷の床の中に、とてつもなく大きなジャイアントパンダの姿があった。


その姿は、氷づけになっていても、死んでいるのではなく、眠っているように見えた。床の氷を踏んでいるだけで、異様な迫力を足の裏で感じる。


優吾はかがみこんで、氷の中に眠っているジャイアントパンダの顔をまじまじと眺めた。目を閉じて、安らかな顔をしている。

優吾はホッとして、一息ついた。

そして、氷のトンネルへ引き返そうと踵(きびす)を返した。


トンネルの入口で、何とはなしに振り返り、氷の床に目を落とした。

瞬間、優吾の身体が硬直した。

氷の中のジャイアントパンダの目が、大きく見開かれていた。

優吾の耳に、ひっきりなしに、風の音が聞こえた。

気がつくと、目の前にパンダがいて、優吾はパンダの丸い目をじっと見つめていた。


我に返り、顔を上げると、優吾は、先ほど来たばかりの「幸福村」の眼前の草はらに立っている。


〈続く〉

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