第7話 【近づいてくるもの 】


石の坂を上がりきると、鼻先に空があった。


頬に吹き上げる風は、目の前に広がる高原を渡ってくる。

高原の向こうの山の傾斜に、真白い家々の壁や赤レンガの屋根が見える。

あれが優吾が目指していた幸福という名の村なのだろう。


優吾は高原を歩き出した。


しきりに向かい風が、優吾の髪をなびかせる。

草原の広がりの所々に、ぬかるんだ土肌が見える。

近づいていくと、泥濘(ぬかるみ)も2種類あることに気がつく。


ただの湿った土の所と、水たまりのように完全に水浸しになった所と。

ぬかるみを迂回(うかい)しながら、何気なく水面を横目に眺めると、時折小魚の影がゆらめくのが分かる。こんな所にも魚がいるんだなと優吾は少し感心する。


そのまま草原の中を歩いて行くと、頻繁(ひんぱん)に石に足を取られて転びそうになる。石は、緑の覆(おお)いを被(かぶ)りながらうずくまっているから、歩いていてもなかなか気がつかない。


下を向いて石に気づかいながら歩いているうちに、いつの間にか、目の前に山の麓が近づいて来ていた。村までもうすぐだ。

優吾は顔を上げ、村に向かってゆっくり歩いていくうちに、

村のほうから何か動物らしいものが一匹こちらに近づいてくるのが遠目に見えた。


はじめは犬だと思い込んで、特に気にしないでいた。

でも村に近づいていくうちに、犬にしてはかなり大きいことに気がついた。


何なんだろう。

優吾はしきりに目を凝らして、よくその動物を観察する。

四つ這いの恰好。大きな体格。その白と黒のムクムクとした毛並み。

そののっそりした歩き方。


優吾は思わずカザフ族の青年の言葉を思い出す。


「幸福村モ、昔ハ、パンダガイタラシイヨ」


村の前まで来て、その動物を間近で目にした時、優吾は思わず声をあげた。

やっぱりパンダだ。冷静に考えてみると、ここは中国だしパンダがいてもおかしくはないのだが、それにしてもこんな辺鄙(へんぴ)なところにいるということ自体に、違和感を覚えずにはいられない。


第一、あの今にも石や岩が転がり出しそうな危険な坂を、どうやってここまで登って来たというのだろう。

それともずっと大昔からここで生まれて、暮らし、死んでいたのだろうか?


外側に向いた黒い耳、毛並みの黒い、両手足。

それが段々と細くなりながら背の中央へと伸びていく。

シッポは、丸くて短い。そして胴体の白色。


これをパンダと言わなければ、一体どんな動物がパンダだというのだろう。

動物の体をまじまじと観察していた目を、優吾はふと、その顔に向ける。


その時、一瞬、目が合った。

パンダは大きな黒目で覗くように優吾の目を見つめる。

優吾は見つめ合ったまま、目が離せない。

突然、耳のそばで、うなるような風の音がした。


気がつくと、呼吸ができない。

全身に痺れがはしり、意識が急激に遠のいていく。

風の流れが見える。

それは、木々の合間をぬいながら、小川のように流れていく。

風には色がある。緑っぽい色に、多少黄色やオレンジが混じっている。

風の色は薄くなったり濃くなったりしている。

それはあたかも流れに緩急が生じるように、風にも深みや浅瀬があることを教えてくれる。


優吾は風に乗っている。

いや、風になっていると言ったほうが正しいだろう。

風の中で優吾の身体は風と同じ色をしている。

絵の具が滲むように風の中で優吾の身体は曖昧になり、流れていく。

木々の合間を抜け、山の斜面を這うように翔(か)けのぼる。


一気に頂上まで達した時、目の前に広大な景色がひらけた。


しばらく、優吾は山の頂上の空気に溶け込みながら、雪をかぶった向こうに連なる山峰や下界を見下ろす。


遥か地平に横たわる藍色の雲の層の頂(いただき)から、朝日がのぼる。

ふいに、茜色の光線が、扇状に広がり、スッと音もなく伸びてきて、優吾の足元に光を当てる。その瞬間、優吾の身体は、茜色の朝日で出来た桟橋の上を滑りだす。

こういうのを光の滑り台を滑っていくような感覚、というのだろう。


見る間に加速していくと、下を伸びていく朝日の光線が、スパークして火花をあげる。すると、優吾の尻が火が付いたように熱くなる。これは大変だと優吾は思うが、自分では成す術がない。

そのうち、目の前の太陽がくっきりと姿を見せた。

一段と明るい光線が優吾をまるごと包み込む。思わず眩しくて、優吾は目を閉じた。


しばらく目を閉じていると、まぶたの裏に、陽射しが弱まり、影が射してくるのを感じた。優吾はそっと目を開ける。すると、急激に膝が震えだした。


そう、優吾は氷河の中にいた。



〈続く〉

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