第6話 【幸福という名の村】


――バスがアルタイ地方に着いたのは夜のことだった。


バスから降りると、冷気に身震いする。

夜の高地は、夏でも寒い。

優吾は背を丸めて歩き出す。ホテルはすぐそこにあった。


翌朝、目が覚めると、優吾は早めに朝食を済ませて、外へ出た。

『幸福』という名の村への道すじは、バスから降りる時に運転手から聞いていたし、

それにアルタイ地方の地図ももっていたので、およその見当はついている。


優吾はホテルの門を出ると、昨日バスが到着したターミナルの方角と正反対の方へ歩き出した。

前方に雄々しいアルタイ山脈の雪嶺が見える。

歩いている時、優吾の耳の中に、ウルムチで知り合ったカザフ族の青年の言葉が蘇ってくる。


「優吾。中国デハ、大昔、パンダト人間ガ、トモニ、暮ラシテイタ村ガ、アッタンダ。ソンナ村ハ、タイガイ、人間ヲ寄セツケナイヨウナ、辺境ニ在ッテ、国ニモ、

ホトンドのヒトニモ知ラレテイナカッタ。ソウイウ村ガアルコトガ分カッタノハ、

ゴク最近ニナッテカラナンダ。噂(ウワサ)ニヨルト、幸福村モ、昔ハ、パンダガイタラシイヨ」


遠くで水の音がすると思っていたら、眼前に陽射しを満遍(まんべん)なく浴びた輝く川面が見えてきた。


近づいていくと、流れ行く川面には、小さな太陽が映し出されていた。

そしてその光の強い円を中心にして、そこから、光が伸びてひし形状に広がっていく。流れの断続的な変化にともないそれは、生き物のように揺らいで見える。

まるでそれは、眺めていると、川上に泳いでいく大きな魚のようだ。


優吾は、しばらくそれを眺めていた。

それが珍しいというわけでもないのに、流れの状態の変化や風の発生によって、川面に映し出された光の形が変わっいくのに、どうしても目がいってしまう。


やがて、雲が通過して太陽を隠し、川面に影が映った時、優吾は、顔を上げた。

強い光を正視しすぎたためか、少し目が痛む。

辺りを眺めると、橋の姿はまったく見当たらない。


幅30メートルの川だから、まさか歩いて渡るわけにもいかない。

どうしようかと迷っていた時、ふいに、川面を滑るようにして向こうから無人のイカダが流れてきた。


それは優吾がいる岸のすぐ前で止まった。


イカダは、やっと二人乗れる位の大きさで、丸太を縛(しば)って作ってあった。

イカダの上には、長い棒切れが一本横たえてある。

これで漕(こ)げという意味なのだろう。思いがけなく運がいいぞと優吾は思う。

何も考えずにそれに飛び乗ると、棒切れを手にして岸から離れた。


イカダはあまり流されることもなく、真っ直ぐ向こう岸まで進んだ。

優吾は船頭気分で櫓(ろ)を漕(こ)ぐように棒を操る。

岸に着くと、優吾はイカダから飛び降りた。


目の前には、大きな森が広がっている。

背丈の高い木々がひしめき合い、鬱蒼(うっそう)とした緑の屋根が空を隠している。

話によると、ここからは歩いてしか行くことが出来ないらしい。

この森を通り抜け、一時間ほど山を登れば、『幸福』という名の村にたどり着くはずである。


優吾は森の入口に立つと、ふと、後ろを振り返った。

イカダは、もう、そこにはなかった。おそらくどこかへ流れていってしまったのだろう。森の中に入っていくうちに、イカダのことは、もう気にならなくなった。


細い道が森の奥まで続いていた。

道なりには、足元にシダ類やゼンマイが群生し、道の両側にはアーチ状に笹が鬱蒼と繁っている。時折、覆っている天井の笹の葉が途切れて、マンホールの穴を覗くようにして木々の世界が覗いて見える。


棒のように真っ直ぐに伸びた幹が、森の中を狭く見せる。

森の天井は、さながら緑青のドームのようだ。

その森の上にひしめく緑青が、森の中を影で覆い、地面を湿らせる。

湿った土には、シダ植物や茸が生えている。

森の中には、光はあまり射してこないようだ。奥へ入っていくほど、薄暗くなる。

笹のトンネルは、巨大なイモムシのように真っ直ぐに伸びていく、そんな風に優吾には感じる。


それは、時折、急な上り坂と下り坂が交互に続いたりするからだ。

あたかもイモムシが、上下に身をくねらせながら前に進んでいるあの状態の時の、

イモムシの内部を歩いているような感覚を受ける。

そんな状態のままに、長い間森の中を進んでいるうちに、ようやく光の射し込んでいる場所へ出た。


笹のトンネルは、ここで一端(いったん)途切れていたが、また坂の上がり際から、長いイモムシの背を伸ばしていた。



そこは大きな一枚の平らな石の上だった。


そこから先は、逆上がりになっている。

坂には大小様々な形状を成した石が、道にギッシリと敷かれている。

見上げると、坂のずっと上から、かすかに陽射しが差し込んでくる。


きっと、この上に村があるのだろう。

優吾は這うような格好になり、石の上に片足を置いた。

石の坂を登りはじめると、足をかけると落石しそうな石が、かなりあることに気がついた。優吾は慎重に時間をかけて、手足を一歩づつ前へ出していく。


気分はもうロッククライミングだ。

もしかすると、ロッククライミングよりも危険かもしれない。

何しろ坂の上でゴロゴロしている大きな石が一つでも落ちてきたら、優吾が無事に避けることができたとしても、他の大石の落石を誘発してしまうことは免(まぬが)れないだろう。それを考えていたら、膝や肘が無性にむず痒(かゆ)くなってきた。


登っているうちに、いつの間にか優吾は震え出していた。

震えと共に、石にしがみつきながら、優吾は心に浮かんできた問いを自分自身に投げかける。何故自分はこのような所へ来てしまったのだろうと。

そんな風に後悔しはじめたら最後だ。思うように手足が動かなくなる。


一歩も前に進めない。

もし少しでも動こうものなら、5メートルほど上に見える猪ほどの大きさの石が、音を立てて落ちてきそうな予感が、映像が、フラッシュバックする。


優吾は、坂の途中で完全に固まってしまった。

今まで、苦もなく登っていた傾斜だが、今優吾が身に感じているのは、

手を放すと奈落へ落ちてしまいそうなくらいの、険しい急斜面である。

優吾の額から、冷や汗がにじむ。


どうにもできない。どうにもならない。

もう目をつむるしかない。そうやって、手を放して、奈落へと転がり落ちていく瞬間を待つのだ。


1分……

2分………

3分…………

4分……………


これだけの時間が優吾には、20分以上に感じられる。



5分……………

6分………………

7分…………………



もうダメだと思い、優吾が手を放そうとしたその時、


「せっかくここまで来たんだ。僕に会いにおいでよ」


こんな声が耳元でハッキリと聞こえた。


優吾は驚いて顔をあげる。

必死に石にしがみつきながら、辺りを見回してみるがどこにも人影はない。

幻聴かなと思って、ため息を一つついた時、また声がした。


「さあ、登れるさ。もうわずか100メートルで頂上なのに、君はこんな所でバテてしまって、死ぬつもりなのかい。

思い出してごらんよ。君は僕に、会いに来たのだろう? 」


その声を聞き終わり優吾が顔をあげた時、

トンネル内に立ち込めていた霧が流れて、遥か頭上に空が見えた。

それを目にした優吾の体に異変が起きた。

急激に自分の体に力がみなぎっていくような感じがして、身が軽くなったのだ。

優吾は、岩をつかんでいた指先に力を込めた。同時に屈伸して足の爪先をひょいと持ち上げた。1メートルほど登った時、優吾の心は、もう落ち着いていた。

5メートル先の石をつかむ自分の姿が、まぶたの内に見えるようだ。


よし、もう大丈夫だ。

そう思った時、思わず優吾の目から、

堰(せき)を切ったように涙が溢(あふ)れだした。



〈続く〉

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